
湯澤 規子
2026年03月02日作成年月日 |
執筆者名 |
研究領域 |
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2026年03月02日 |
湯澤 規子 |
都市・コミュニティ |
コミュニティ・デザイン |
情報誌CEL (Vol.138) |
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ごはんに炊き込む翡翠色の真珠
野菜売り場で出会うと小躍りしたくなるもの。私にとってその一つは、春先に店頭に並ぶ「えんどう豆」だ。ふっくらとしたさやの筋をすいーっと引くと、パンとはじけるように中からコロコロと丸い豆たちが転がり出てくる。まるで翡翠色の真珠のよう、とうっとりしているのは、もしかして私だけだろうか。
なぜえんどう豆で小躍りしたくなるのかというと、それは「豆ごはん」を食べられるからだ。いそいそと買って帰り、さやから豆を出す。この作業もまた楽しい。その豆を洗った米と一緒に炊飯器に入れ、酒と塩でごく薄めの味付けをしてスイッチを入れる。炊飯の湯気から漂う豆の香りを吸い込むときの幸せといったらない。湯気に「春が来た」ことを告げられる台所でのひととき。そんな一幕を演出するのが豆ごはんの魅力でもある。
とはいえ、関西人以外からすると、「豆を炊き込むなんて、おいしいとは思えない」という人もいるそうで。それはきっと、缶詰グリンピースやシュウマイの上に載っている硬めのあの一粒の味と食感を思い浮かべているからなのかもしれない。「おいしいとは思えない」という人にも、この春にはぜひ、さやから転げ出てきたばかりのえんどう豆を炊き込んだごはんの味を堪能してみてもらいたい。
幻の炊き込みご飯
と力説しつつ、ひとつ告白すると、大阪の豆ごはんといえば、一緒に炊き込むその豆は「うすいえんどう」という種類のえんどう豆なのだということを、最近母と話している時に初めて知った。関東に住みながら父母や祖父母の影響で大阪の胃袋育ちと自称する私であるが、「うすいえんどう」について知らなかったのは迂闊であった。というのも、毎年春に「今年も豆ごはん炊けるで」と私が嬉々として買って帰るその豆は「うすいえんどう」ではなかったからである。私からさやつきの豆を手渡された母が、私が小躍りするほどには喜んでいなかったのは、じつはそういう訳だったのかと今更ながら合点がいった。これだけロジスティクスが発達した世の中であっても、需要が少ないからなのか、関東の野菜売り場で「うすいえんどう」を見かけることはほぼ皆無なのではないか。言い訳がましいが、私が長らく豆は豆でも「うすいえんどう」と出会うことがなかったのは、仕方のないことだったのかもしれない。
情報誌CEL