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情報誌CEL

Dr.Ingrid Haslinger、山下 満智子、宇野 佳子

2011年09月30日

連載 食卓の喜び 第9回 アンピール様式の食卓(1810年)

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2011年09月30日

Dr.Ingrid Haslinger、山下 満智子、宇野 佳子

住まい・生活

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食生活
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情報誌CEL (Vol.97)

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アンピール様式の食卓(1810年)

-ナポレオンとアンピール様式-

 アンピール(Empire)様式は、ナポレオン一世によるフランス第一帝国からそう名づけられ、ロココ時代の贅沢で過剰な装飾に対して、古代ギリシャ・ローマ文化に範を取る簡素な装飾を特徴とした。当時フランスがヨーロッパのほぼすべての国家と戦争状態にあったにもかかわらず、アンピール様式の食卓は、ヨーロッパ中に広まった。ウィーンの磁器工房も、フランスのセーブルの工房を模倣しようとして、おびただしい数のセーブルの製品を購入した。フランス軍によるウィーン占領期には、その交流は特に緊密になり、ウィーンの職人がパリに赴いたり、フランスの職人がウィーンにやってきたりして、相互に影響し合った。
 美しい磁器製のテーブルウェアの需要は、この当時特に大きくなった。皇帝フランツ二世(一世)※は、自らの金や銀の食器類をすべて溶かして、ナポレオン戦争の資金とした。皇帝は、貴族たちにもそれを強制し、それに従わない場合は、高額の罰金を支払わせた。そのため、オーストリアやドイツの銀細工師たちによる18世紀の金銀食器の大半は造幣工場で溶かされてしまった。しかしザクセン・テシェンのアルブレヒト公やエステルハージ侯など、ごくわずかな貴族たちは、罰金を支払うことのほうを選んだ。そのようにしてアルブレヒト公のテーブルウェアは、第二次世界大戦後の混乱期まで、散逸を逃れたのであった。

※ 神聖ローマ皇帝フランツ二世は、1804年からオーストリア皇帝フランツ一世を併せて名乗っていたが、1806年ナポレオンに敗れて神聖ローマ皇帝の帝位を辞した。

-ウィーン磁器の芸術的頂点-

 ウィーンの工房は、磁器に対するこの需要によって飛躍的な発展を遂げ、この時期に芸術的頂点に達した。フランス式給仕法に必要とされたスープ皿、キャセロール、ソース入れ、魚やロースト用の鉢、サラダやコンポート用の鉢、塩入れ、コンソメカップといった金や銀の食器類は、すべて磁器に代わった。
 特に人気があったのは、ウィーン磁器工房の、金色のぶどうの葉の模様がついた食器であった。その中で当時を特徴づけるものは、オリオスープを供するためのコンソメカップであった。オリオスープは、おそらくカール六世(1685−1740)の時代に、スペインのオラ・ポトリダ(ollapotrida)としてウィーンのハプスブルク宮廷に取り入れられたと思われる。この栄養たっぷりのごった煮は、ウィーンで洗練され、貴族の食べ物となった。スープの材料は捨てられ、食卓に供されるのは、透明なブイヨンだけであった。

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