


こんにちは。エネルギー・文化研究所の山納洋(やまのう・ひろし)です。
私は「Walkin'About」という、参加者の方々に自由にまちを歩いていただき、その後に見聞を共有するまちあるき企画を続けています。目的は「まちのリサーチ」。そこがどういう街なのか、どんな歴史があり、今はどんな状態で、これからどうなりそうかを、まちを歩きながら、まちの人に話を聞きながら探っています。
この連載ではWalkin'Aboutを通じて見えてきた、関西のさまざまな地域のストーリーを紹介しつつ、地域の魅力を活かしたまちのデザインについて考えていきます。
今日ご紹介するのは、四條畷(大阪府四條畷市)。大阪駅から東に15kmほどの場所になります。
四條畷では、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡が見つかっています。古墳時代には馬の飼育行う渡来人が定住していました。平安時代には荘園地となり、南北朝時代には四條畷の戦いの舞台ともなり、戦国時代には飯盛山に城が築かれ、キリスト教が広められました。
JR学研都市線忍ケ丘駅の駅前には、「目をさます 土の中から 土器や井戸の跡」と書かれた看板が立てられています。
忍ケ丘駅は1953年(昭和28年)に開設され、1983年(昭和58年)には駅前土地区画整理事業が行われています。この区画整理に先立って発掘調査を行ったところ、人形、家形、円筒、馬形、子馬形、水鳥形など、さまざまな埴輪が出てきたのだそうです。

忍ケ丘駅前遺跡から出土した馬の埴輪(四條畷市立歴史民俗資料館所蔵)
JR学研都市線四条畷駅から北に約1km余り行った住宅街の中に、四條畷市立歴史民俗資料館があります。オープンは1985年(昭和60年)。ここには四條畷市の遺跡から出土した、日本の歴史を知るうえで貴重な遺物が数多く展示されています。
資料館の運営は現在、株式会社地域文化財研究所が指定管理者としておこなっています。自治体で文化財専門職員をされていた方、埋蔵文化財の発掘調査に携わってきた方が勤務されていて、展示についてかなり詳しいお話を伺うことができます。

四條畷市立歴史民俗資料館
四條畷には、古代のさまざまな時代の遺跡があります。旧石器時代(約2万年前)、縄文時代中期(約4500年前)、弥生時代中期(約2150年前)の遺跡からは、石器・土器、狩猟具、装飾品、祭祀具、住居、お墓などが出土しています。
なぜいろんな時代の遺跡が四條畷にはあるのか?それは、現在の河内平野はかつては内海で、海岸線(現在の国道170号線(外環状線)あたり)から生駒山地の麓までは2kmほどしかなく、ずっとここで人が暮らしてきたからなのです。

約7000〜6000年前の大阪【出典】大阪ブランド資源報告書(大阪ブランドコミッティ、2006年)
特に興味深いのは、古墳時代の四條畷には「馬飼いの集落」があったということです。
古墳時代中期(5世紀前半)に朝鮮半島からの渡来人たちは、この地に蒙古系の馬を連れて渡ってきて、牧場を築いて飼育していました。蔀屋北(しとみやきた)遺跡からは140棟以上の住宅跡とともに、馬の骨や歯、井戸、馬具、製塩土器などが出土しており、周辺の遺跡からは馬形の埴輪が見つかっています。日本書紀や古事記には「河内の馬飼部」という表記がありますが、それがこのあたりだったのです。

奈良井遺跡の「馬のまつり場」で発見された馬の頭骨と人形、馬形土製品
資料館には資料とともに、多くのイラストが展示されています。このイラストを描かれたのは佐野喜美(さのよしみ)さん。資料館のスタッフ(元館長)で、発掘調査の現場も長年経験されていて、歴史に詳しく、イラストが得意というすごい方です。僕が行った日には佐野さんが資料館におられ、資料の詳しい説明をうかがうことができました。

「馬飼いの里」イラスト:佐野喜美さん 四條畷市教育委員会提供・奈良文化財研究所撮影
資料館には、「田原レイマン墓碑」というものも展示されています。
戦国時代に、有力大名の一人だった三好長慶は五畿内を支配し、1560年(永禄3年)に飯盛山に城を構えました。長慶がキリスト教の布教を認めたことで、長慶に仕えた武士73名が洗礼を受け、城下にキリスト教が広まりました。その後豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教を禁じたため、この地でキリスト教が栄えたのは20年ほどでした。
三好家の家臣として飯盛城の東に田原城を構えた田原氏も洗礼を受け、田原レイマン(礼幡)という洗礼名を名乗りました。
2002年に田原で行われた発掘調査で、礼幡と書かれたキリシタン墓碑が出土しました。レイマンは1581年(天正9年)に弾圧を受ける前に亡くなりましたが、墓碑は田原氏の菩提寺の土塀のはしに、隠されるように埋められていたのだそうです。
現在、日本最古のキリシタン墓碑で大阪府指定有形文化財に指定されています。

田原レイマン墓碑
南北朝時代には、四條畷では「四條畷の合戦」がありました。鎌倉幕府を倒して天皇中心の政治を始めた後醍醐天皇を支えた河内の豪族・楠木正成は、1336年に神戸の湊川の戦いで戦死しましたが、その後武士として成長した嫡男・楠木正行が1348年(正平3年)に四條畷で北朝軍と戦うも、自害しています。正行の死後80年ほど経った頃に正行の霊を弔うクスノキを2本植えた「楠塚」が作られています。明治時代になると、政府により南朝が再評価され、楠木正成が「大楠公」(だいなんこう)として神格化され、正行も「小楠公」(しょうなんこう)として崇められるようになりました。1878年(明治11年)には墓所が整備され、1890年(明治23年)には飯盛山の山麓に
四條畷神社が創建されています。1895年(明治28年)には浪速鉄道が片町―四条畷駅間を参拝者のために開業し、この地は人の集まる繁華な町へと一躍発展しました。
伝楠木正行墓(小楠公墓所)
四條畷神社
今、四條畷市街を歩いていて一番目に入るのは、サンタ像です。
四條畷神社の参道の階段の一番上にも、白髭に金雲をあしらった、仙人のようなサンタが立っています。このサンタ像は、四條畷市在住の絵本作家・谷口智則さんが描いたものです。

四條畷神社にあるサンタ像
四條畷神社にあるサンタ像
谷口さんは『100にんのサンタクロース』という絵本を描かれている方ですが、2015年からFRP(繊維強化プラスティック)製の黒い像にサンタを描き、四條畷市内のお店や施設の前に置いてもらうプロジェクトを続けてこられました。その100体目として、昨年9月に万博会場で作られた『みらいサンタ』が、現在忍ケ丘駅の駅前に展示されています。今年10月末まで、忍ケ丘駅前に展示されるそうです。よく見ると、色がミャクミャクですね。
忍ケ丘駅前にある「みらいサンタ」
四條畷神社の参道にある商店街には、谷口さんが営むギャラリーカフェ「Zoologique」があります。また四條畷市では、絵本の美術館と絵本図書館、ベーカリーブックカフェのある複合施設を作る「100にんのサンタえほんのもり」プロジェクトが進んでいるそうです。オープンは2027年秋を目指しているとのことです。


gallery & cafe Zoologique
四條畷市は人口5万人ほどの小さな街ですが、山が近く、歴史があり、地元感と一体感がある住みやすそうな場所に思えました。
情報誌CEL