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2022年05月20日 by 池永 寛明

【起動篇】現代日本を支配する「自由」という存在 ― 自由と統制(1)

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「新しい資本主義」が政策の論点になっている。「資本論」に関する本がよく売れている。「資本主義」が突然話題になっているが、どれもこれもよく分からない、どうもリアリティがない。

 

あたり前のように使っている資本主義。どういう意味だろう。資本主義と自由はどういう関係?資本主義における成長と分配の関係とはなに?みんな、わかっているのだろうか?なんとなくわかったフリをしているだけではないだろうか。

しかしこの資本主義ってなに?という問いのなかに、現代日本社会を解く鍵が隠されている ―― それは「自由と統制」。

 

 

1.現代日本を支配する「自由」という言葉

 

ウクライナ紛争は「自由主義と専制主義」の違いを浮き彫りにした。コロナ感染対策として、マスク着用義務化か脱マスクか、都市封鎖かウィズコロナか各国の政策の相克を明らかにした。こういった議論のなかには「自由と統制」の関係が内在している。

 

私はビジネス現場で気づいた日本の現代社会の変化と課題を「note日経COMEMO」で5年間発信しつづけてきた。様々な角度から現代の日本社会を見つめてきたが、現代社会のなかの最大の課題は「自由」という存在ではないかと思い出している。その話をしたい。現代日本社会は

 

なにをしてもええやろ!
なんでこれをしたらあかんねん!

 

という声が世の中を支配している。町のなかで大声を出している人がいた。みんな迷惑していた。我慢できないのでその人を注意したら

 

なんで大声を出したらあかんねん?
法律のどこかにあかんと書いてあるんか?

 

と反応されることがある。だから変に注意したら逆ギレされたりするから、放っとこうという空気になったりする。たしかに大きな声を出すだけでは犯罪にならないが、状況によれば「騒音防止条令」などの条例に触れることになるかもしれない。このように日本社会においては

 

こっちはいいが
あっちはあかん

 

どっちやねんと分からなくなることがある。いや、そんなことが現代社会のいたるところにある。日本は「自由」というけれど、意外に「統制」に縛られていることが多い。いや自由のなかで統制を求めたいという声を見聞きする。いや日本は逆だと考える人もある。つまり統制のなかで自由を求めるという構造だという人もいる。

 

 

2.資本主義の自由は「Free entry」

 

資本主義だから自由と思っている人は多い。資本主義は社会主義・共産主義と比較して、「資本主義=自由」で「社会主義・共産主義≠自由」だと捉える人がいるが、厳密に言えば資本主義には「自由」という定義はない。


資本主義とはひとことでいえば、資本が次の資本を生む仕組みのこと。資本を回転させて、付加価値をつけ、次の資本を生む。このように次々と拡大投資していくのが資本主義である。資本主義は自由主義とセットで捉えられがちだが、資本主義には「自由」という定義はない。


資本主義と自由主義とは別物である。


たしかに競争は自由である。自由が尊いといわれる。なぜか。統制だと「道を間違う」可能性がある。たとえば農業で米をつくりなさいという命令に従ったら、米が余ってしまった。林業で杉を植えなさいという命令に従ったら、杉が余ってしまっただけでなく花粉症を発生させた。このように統制の仕方によって道を間違うことがある。
中央が地方に対して命令を出し、地方がそれを忠実に実行したところ、需給に狂いがでて生産過剰・供給過剰になった。すると市場で価格がさがり、生産すればするだけ損となった。このようなことがおこりうるから、自由競争・市場にまかせた方がいいと考えるようになった。


この自由が資本主義とつながった。自由には、「能動的につかむ自由」という意味のLiberty(リバティ)と「自分がしたいことを好きなときにできる自由」という意味のFreedom(フリーダム)があるが、資本主義での自由はむしろ「Free entry(フリーエントリー)」、自由参加・自由参入・入場無料というニュアンスの方が近いような気がする。もっといえば資本主義の自由とは

 

「やりたい人がやったらいい」ということ


自由に取り組んだ。その結果、成功する人と失敗する人が生まれた。資本主義はリスクをとる必要があるので、社会主義・共産主義よりもリターン・成功規模が大きい。失敗した人の損害よりも、成功した人の得る利益の方が社会全体で大きいから、自由主義は〇(まる)となった。だから自由に参入しあって、競争をして儲けようとなった。

 


3.日本型自由の絶対的「ねじれ」

 

そう考えると、自由主義は社会利益をもたらすだろうか?自由主義は、なにをやっても、拘束を受けない。自由に意見を言いあって、自由に好きなことをやっていい。好きなことをして、成功する人も失敗する人もいる。それは当たり前のことと受けとめられているが、そもそもだれか「自由であることが善である」と証明した人がいただろうか?

 

たとえばこんな話はどうだろう。コロナに感染したときのコロナ診療費や治療費は無料である。コロナウィルスは指定感染症であるため、国がかかる費用をすべて出す。しかしコロナウィルス感染拡大しているなか、コロナ感染対策等を守らず、コロナに感染してしまった。そこで高額医療を受けた。その医療費の負担はゼロである。

 

これって、いいのだろうか?

 

そう感じることがある。また本当の自由主義社会だったら、コロナ禍だから「マスクをしろ」ということへの反対運動がでてきてもおかしくない。現に世界各地で激しくおこっている。しかし日本ではそんな運動は殆んどおこっていない。むしろ日本人はマスクをしていない人を冷ややかに見る。

 

これって自由といえるのだろうか?

 

なおかつ日本では「人民の移動」という自由を奪った。感染拡大しないための重点措置として活動の制約をお願いした。これが日本の法令の建てつけとして、憲法が保障している「公共の福祉に反しない限り、住居・移転および職業選択の自由を有する」に抵触しないかどうかギリギリの線ではないかと指摘さている部分がある。このように自由と統制のなかで

 

「ねじれ」がいたるところにある。

 

 

4.世界で一つだけの花 ― 争わないとどうなる?

 

「今までのやり方・考え方はおかしい。社会の仕組みを見直さないといけないのではないか。本当に今の資本主義に自由はあるだろうか?本当に成長しなければいけないのか?成長しなくてもいのでは。本当に競争しないといけないのか?競争しなくてもいいのでは」

 

といった声が日本社会に増えつつある。それが「新資本主義」が標榜されている立ち位置である。

 

SMAPの「世界で一つだけの花」が流行したのは、今から20年前の2002年。1991年のバブル崩壊を契機とした長期間景気低迷している日本への応援歌ともいえる歌で、社会に広く受け入れられた。


「誰が一番だなんて 争うこともしないで バケツのなか 誇らしげに しゃんと胸を張っている」
「それなのに、僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのに その中で一番になりたがる?」

「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」


みんな、それぞれで多様である。それはそのとおり。しかし現実はどうだろう。世界で一つだけの花といえども、たとえば1000本の花が店先にあって選ばれる確率は1000分の1。自分が選ばれるまでに、花は枯れないでいられるだろうか。残念ながら多くは萎れて廃棄される。

 

だから花は色や形や匂いのちがいを出して、少しでも早く誰かに選ばれようとする。しかしどの花も同じだったら、どの花も不幸になる。店先で誰かに選ばれる宿命のうえで、争わないと花は生き残れない。

 

競争は、そこにもある

 

競争しない、競争したくないといっても、資本主義での成長は「競争」要素なくしては実現しない。ただひとつ、計画経済の共産システム以外は。ただし共産システムには競争がないというのは、共産システムの理論のなかの話であり、現実は共産主義のなかでも競争はある。

 

「ささやかな満足であってもいい」といっても、お金がなければその生活は維持できない。成長しないとやっていけない。税やクラウド(寄付)などでの再分配も、成長の結果としての余剰が原資である。「ほどほどの豊かさで満足せよ。ただしある一定の利得や所有しか許されない。税を徴収する」となったら

 

人は本当の豊かさ・Well-Beingを
実感できるだろうか?
人は生きもの。生きものである限り
選択・選別からは逃れられない

 

そう考えると、自由とは「自己アピール機会の選択性」をいうのではないだろうか。自分の生をなにで他に知らしめることができるのか?これなしでは、すべての生きものは存在し得ない。

 

 現代日本社会を支配する「自由」という存在をこれから少し考えていきたい。

 

(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)

〔note日経COMEMO 5月18日掲載分〕

 

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