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2021年09月30日 by 池永 寛明

【交流篇】なぜあなたは辞めないの?― 便乗日本(3)

(淡路島七福神・毘沙門天・覚住寺)



「大変ご迷惑をおかけしました。私が責任者として一刻も早く問題の収拾をはかり、問題を究明して、再発を防止します。それが私の責務です」― そういうトップの責任のとり方が増えた。社会からは「それって、どうなの?おかしいよ!」という声が吹き出るが、社内・組織内からは「不透明で複雑な時代だから、今までどおりでいいのじゃない」「まあ…いろいろあるし、辞めなくていいんじゃない」となり、落ち着かせる。そういう責任のとり方を許すという風潮がある。失敗したら消えるのが責任のとり方、再起は他で図るのが、これまでの世の常だったが、そうではなくなったようである。

近年、企業の不祥事にあたり、「辞めずに、問題を解決するのが経営者である私の責任だ」というようになった。しかし、後始末はあなたではなくてもできる。いや不祥事の責任者本人が後始末をするというのはどうなのだろうか。最近、その傾向が強い。そしてそれを許す風潮がある。


1.有耶無耶にする構造


組織の不祥事にトップが「この事態を収拾することが私の責任である」という。そうじゃない。あなたがトップにいて、そうなった。あなたはそれを管理できなかった。あなたは消えて、次の人が前経営者・その前・関係者を含めて、「なにがおこったのか」「なぜそうなったのか」を総括しなければいけないのに、責任者が変わらなければ有耶無耶(うやむや)になる。

 

日本は昔からそうだったという人もいるが、そうではない。

「腹を切る」「自腹を切る」という言葉が現在に残る。責任の取り方を意味し、文字通り「切腹」に由来する。封建時代の道徳観念で、不始末がおこった場合、自らの責任を判断し、自らおよび家の名誉を保つという社会的意味から「腹を切る」という責任の取り方をした。実際はたいしたことでなくても、“〇〇で揉めたときに、誰それが腹を切って片を付けた”という江戸時代の文献は多く残っている。

 

それが150年で変わった。企業の不始末に対して、責任をとるべき人が責任をとらない。それは企業文化に影響を与える。そういう責任のとり方を許すと、後々同じように助かろうとするトップがあらわれる。そのトップに対して

ここで厳しく糾弾すると

いつか自分も厳しく責められる


だから「しょうがない」とまた許す。それで許されたら、「いや…助かったよ。君たちのときも、そうするからな」となる。順繰りに責任回避する。このようにして便乗社会を強固にしてきた。


2.先送り構造の限界


にもかかわらず、自分が責められたとする。
「前だって、そうだったろ」「前の時はこうだったのに、なぜ私の時だけこうするんだ」という前例主義がとびだす。

そんなことが許されるのは、日本くらい。日本の、しかも「組織」くらい。それが現在の若者たちには、理解できない。若者たちには、そうなる「将来」は必ずしも保証されていない、約束されていない。だから若者にとって「責任の先送り」は許せない。

そのような組織文化は、バブル経済崩壊とともに崩壊したはずだった。しかしバブル期に実務的中心だった人たちが会社・組織の幹部になり、バブル組織文化は生き残った。世の中ではバブル時代のような行動様式はとうに通用しなくなっているのに、変わらなかった。

そしてコロナ禍という変革期となった。会社・組織のなかでバブルを知らない世代が過半数を超え、「ずっと同じ会社に勤めつづける」という就業観が変わろうとする現在、

「辞めない責任のとり方、絶対におかしい」
「前からそうした…そんなの知るか」


となる。しかしギリギリと厳しく責任を追及していくと、日本では組織が成り立たなくなる、とバブル前の世代から反対意見が出てくるが、

それって、本当?


世界はそれで成り立っている。なぜ日本だけが成り立たないというのだろうか。


3.本当の「人材」が出てこれない


こういう話もある。日本組織のトップには、高齢者が多い。世界のトップと比べて、高齢者が多い。どうして?

「それが日本社会なんだ」


というのは間違いである。若しそうならば、明治維新はなんだったのか。20歳台、30歳台の若者たちが明治維新を担った。維新の三傑といわれる西郷隆盛は42歳、大久保利通は39歳、木戸孝允は36歳だった。徳川幕府最後の将軍徳川慶喜は31歳。明治維新前年に暗殺された坂本龍馬は31歳だった。みんな、若かった。

コロナ禍を契機にデジタル革命だDX時代というならば、これを機にDXリテラシーのある人たちに交代しなければならないのに、そうしない。明治維新・敗戦につづく近代3度目のコロナ禍大断層(リセット)の現在に、本当に力のある人に第一線で活躍してもらわなければいけないのに、どうも物足りない。

世の中に出ている若い人がいないわけではない。むしろ一気に増えている。新聞・ラジオ・テレビという従来のメディアに加え、フェイスブックにユーチューブやインスタグラムやオンラインサロンといった新たなメディアに登場し、脚光を浴びたりしているが、

どうも薄っぺらい。


この人たちが次世代の旗主だとどうしても思えない。日本の、ごく狭いコミュニティで持て囃されているだけで、日本社会をよりよいものにする人材、世界で通用する人材とは到底思えない。

日本は「人材」が不足している。いや正確に言えば、本当の「人材」がいるが出てこれない。なぜか。既得権益や勝ち組に「便乗」する人があまりにも多い。

たとえば非常事態のコロナ禍で、コロナ禍における課題や対策を明確に論理的に語る人がいて、世の中から「あの人、いいこといっているね」と支持されても、業界の「権威」といわれる人たちから

あの人、どこの大学出身なの?
学界で、その人のこと、聞いたことがない。


というような声が沸きあがり、寄って集(たか)って、本当の人材を潰す。それを良しとするのは、先の会社の組織の責任のとり方と同じく、その人を認めると自分たちの評価がおちてしまう、新しい人を受け入れると自分たちがその立場にいられなくなる。だから

今までどおりでええんちゃう。


とやりすごす、無視する、仲間はずれにする。このように「今までどおりする」「本当の人を認めない」うちに、世界から置いていかれる。現に日本の強みだったゲームでさえ、世界でのシェアをおとした。

世界大学ランキングでも、日本の大学は順位をおとした。なぜそうなったか。大学ランキングを決める評価ポイントは英語での学術論文発表数と被引用数のウェイトが高く、日本の大学の研究者たちが論文を書いている以上に中国やシンガポールの大学の研究者たちが論文を書いているということ、それも論文を書いているだけでなく世界から高評価されて「引用」されているということ。日本はどこかでとまっている。



4.「45歳定年」議論の本当の意味


なぜそうなるのだ。なにもしなくても、日本には身分が保証されるという世界がある。だから緊張がない。だからいったん「定位置」についたら、努力しなくなる。

もし大学のトップである総長・学長を毎年契約・1年契約としたら、どうなるだろうか。緊張感が高まり、内向きから外向きとなり、必然的に大学の教員・研究者から

年寄りは減る。


かつて大学の理系の先生は自分の学生を企業に入れた。それが変わりつつある。研究室で就職の世話をするということが減りつつある。企業からしたら、世界から優秀な人材が集めることができるようになった。とするならば、〇〇の研究室とのつながりとか、〇〇先生からどうのこうのではなく、世界から優秀な人材を集めた方が企業の力を高められる。

現に日本の企業の技術研究所に外国人が多くなった。企業が新たな戦略を展開しようとすると、日本の大学の先生、研究室ルートからの人材調達だけでは成り立たない。となると日本の大学生・大学院生は、大学の先生や研究室という「権威」に便乗するのではなく、実社会で通用するよう自らを鍛えていかねばならない。

十年一昔 → 一年一昔


かつて「十年一昔」といっていたが、「一年一昔」くらいの時代速度に私たちははいる。技術は猛スピードで変わり、ビジネスモデルは劇的に変わる。十年前の技術知識や方法論が通用しなくなっている。

だから「45歳定年」議論は唐突のようだが、そうではない。
大学で学んだことが10年後20年後に通用しないこと、私は理系だから文系だからは通用しなくなっていることに、みんな気づいている。社会に入ってからの学び直しが話題になるが、従来のやり方の踏襲、既定路線の順守では社会の変化に対応できないことは、みんな分かっている。

今までにないこと、新しいこと、突然続々と動き出す事柄の意味が本当は理解できず、”そんなことも分からないの”と思われたくないから、若者たち、後輩たちからの提案に対して、こういってきた。

「それで、ええんとちがうか。やったらええで」


と分かったふりをしてきたが、本当は分かっていない。だから学び直しというトーンではなく、これまでの常識・成功方程式をリセットして、ゼロから学ぶという位置づけで臨まなければ、世の中は通用しない。だから40歳、45歳でリセットして、全く新たなことをイチから学び、次を生きるという時代にすでに入っているのかもしれない。

にもかかわらず部長・役員・社長には、50歳台、60歳台以上でないとなれないとなると、若者はどう思うだろうか。優秀な若者がいて会社を動かすポストにつくまで30年かかるとなったら、若者は耐えられるだろうか。

本当に力のある人を見出して、適材適所のポストにつかせる。どんどんポストを循環する。若く実力のある人がポストにつけ、自由闊達、新しいことにチャレンジさせる。若いから無理ではなく、やらせたらやる。やらせたら頑張る。少なくともあなたよりやるはず。

本当にやらなければならないことがわかった。それを社会で展開しようとなった。しかしそれをするのは、今の会社では難しいと思ったら、別会社をつくってすればいい。ベンチャー会社と組んでやればいい。それくらい既存の「便乗」組織は頑硬なのである。

実はそれは日本だけでなく、世界のビジネスでも同じ。しかし世界ではベンチャーが続々と生まれている。そういう社会システムが世界では機能している。一方日本はそういう文脈でのベンチャーがあらわれにくい。それだけ日本の「便乗」構造は重症。

そもそも日本の「便乗」という意味はなにかを次回考える。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)

〔note日経COMEMO 9月29日掲載分〕

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