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2021年04月01日 by 池永 寛明

【起動篇】あの人みたいになりたい「あの人」はいますか? ─ 自我レス時代 (2)

古いものがずっと残り、新しく評判になったものがあっという間に飽きられることがある。飛鳥時代に建てられた寺社が今もそのまま残っているが、近代建築物が築後数十年で陳腐化したりする。なぜそうなるのか。「かつて建築は一部の建築家しかつくれなかった。それが誰もが簡単につくれるようになって良いものがつくれなくなった」― 世界的建築家の坂茂氏からお聴きした言葉。はっとした。建築だけではない、あらゆる事柄でそれが言えるのではないか。


1. 思考停止させる「時代」のキャッチフレーズ

「大量生産・大量消費」という言葉を最近あまり使わなくなった。1960年代70年代80年代は、社会・産業システムを語るとき、なんでもかんでも、まずは「大量生産・大量消費」だった。その前の社会・産業システムのイメージがみんなの頭に残っている間は、伝家の宝刀のように使われるが、その前の姿が忘れられ、見えなくなって、「大量生産・大量消費」が当たり前になると、「大量生産・大量消費」というキャッチフレーズは消え、現在、滅多に使わなくなった。

ここ10年は、「少子・高齢化」一色である。計画や戦略の1枚目に、まずこの言葉がでてくる。前提条件が変わろうが変わるまいが、「少子・高齢化」が議論の前提に置かれ、誰もそれを疑わない。この言葉が出てくると、思考停止する。前提条件が変わっても、そこを発射台とするから、議論がズレ、発展も深掘りもできない。

コロナ禍に入ってからは、「DX(デジタルトランスフォーメーション)」一色。コロナ禍を乗り切るためにはDXだ、これからの時代はDXだ。なんでもかんでもデジタルにAI、データ駆動型社会にSociety5.0になるのだといって、イメージ図を描く。しかし中間が見えないから現実社会・生活と乖離する。予算を申請する方も予算をつける方もDXの本当の意味・使い方が判らないので、「絵」を描いたらさっと予算がとれたりする。そういう時代のトレンドキーワードがいつの時代もあった。

2.「見る」と「観る」がいっしょになった。

「平成の三四郎」
といわれた天才柔道家古賀稔彦氏が先日亡くなられた。訃報が伝えられてから、「伝説」となったバルセロナオリンピックで足を負傷しながらも金メダルを獲得した感動的な映像が何度も流されたが、古賀氏の一本背負投げはまことに美しい。

対戦相手は、古賀氏の得意技「一本背負投げ」をしてくるのがわかっていても、古賀氏の一本背負投げに決められる。学生時代に柔道部にいた私にとって、古賀氏の一本背負投げにかからぬように防御する相手をいともたやすく一本背負いで決めつづけられてきた姿は驚異的であった。古賀氏に圧倒的な実力があったからこそであろうが、古賀氏のような柔道家はどのようにして生まれたのだろうか。

柔道は「教材」を読んで、「技」が身につくものではない。師匠に手取り足取り、畳の上で教えてもらっても、本番でそれが必ずしも出せるとは限らない。だからなんどもなんども道場で稽古する。しかしそれだけで一人前になれるわけではない。どうしたら一級の柔道家になれるのか。

観て学んだ。畳の上で技をかけたり技をかけられたりするだけでは一人前になれない。師匠やすごい先輩が稽古している姿を観て学ぶ。

客観的に観ることで気づくことがある。目標とする人が柔道をしている姿に自分の姿を重ね合わせて観る。柔道場の内だけでなく、外に出てもその像(シーン)を思い浮かべ反芻して、自らの柔道を極めようとする修練をする。古賀氏は天才柔道家といわれるが、おそらく誰よりも努力してこの修練を徹底して、古賀スタイルがうみだされたのではないだろうか。

相撲もそう。土俵で稽古できるのは二人。その相撲をしている2人の姿を土俵のまわりで力士たちが観ている映像をよくみる。その時間を休憩時間と捉えるのか学びの時間と捉えるかで、力士にとって身につく力が大きく左右される。

しかしどう観たらいいかは、師匠も親方も誰も教えてくれない。自分で考えて観てやってみる、また観て考えてやってみることを繰り返して、力を身につけてきた。スポーツや芸道だけでなく学校も会社も同じであるが、これをしない人が増えた。



あえて漢字が多いのはそれぞれに違いがあり、その違いを理解して実践してきた歴史を意味している。しかしその区分がわからなくなり、そんなのどうだっていいのではないかと、それまで別々だったことをいっしょくたにするようになった。見るも観るも視るも診るも看るも「見る」になり、聞くも聴くも訊くも「聞く」になった。なんでもかんでも一本にして、力が落ちていった。

そんななか、いやそんななかだから、一方にすごい人があらわれた。若くて、経験がそんなに豊富でなくてもすさまじい人があらわれるようになった。

なぜそんな人があらわれるようになったのか。その人に意図なり問題意識を持ち、「観る」力と「聴く」力がある人にとって、ネット・スマホは現実に経験できる場の何十倍、何百倍も観る・聴く「場」を生みだした。

その人にとっての意図なり問題意識のあるなしで、世界は大きく変わる。この「意図・問題意識」が「自我」そのものであるが、これがない、自我レスの人が多い。

3.あの人みたいになりたいという「あの人」がいない。

ある面では人材育成は熱心である。学校にいるときも、学校を卒業して社会人になっても、退職しても、勉強会や講演や塾や専門学校に通って勉強する。とても熱心に勉強する。「先生」といわれる人もいっぱい話をしてくれる。コロナ禍になり、リアルだけでなく、オンラインでもいっぱいその場所が増えた。しかしなかなか力が身につかない、本物の人材が育たない。なぜなのか?

という「あの人」がいないのだ。なぜか。教育や勉強会の先生の話が面白くない。


面白いとは、笑いとか愉快だとか楽しいとかという意味ではなく、もとの語源は「目の前がパッと白く明るくなり、晴れ晴れする」という発見・気づきがあるという意味


なぜか。教える「先生」たちに深い現場経験が少なく、「先生」たちの語りが他人事・一般論なので、響かない、流れる。

なぜそうなるのか。実践の場が意外に少ないのだ。あることはあるが、重要な実践の場はそれぞれの世界の一部の人たちに牛耳られていて、その人たちが「学ぶべき経験」をひとりじめしている。だから多くの人に「場」が回ってこないので、真の経験ができない。だからあの人になりたいというような「あの人」が減った。もうひとつある。

ああでもない・こうでもないといっぱいやるようになって、人は育たなくなった。とりわけ若手の育成はうまくいかない。親方・師匠・上司が自分の姿をみせ、若者はその姿を観て育っていたのに、科学的に育てるのだといっていろいろなこととするようになって、育つものも育たなくなった。

もともと日本の職人の世界の教育システムは、「こうなりたい」という親方をさがして弟子にしてもらい、親方の姿を黙々と観て考えて実践して、また親方の姿を観て考え実践するというようにして学んできた。そんなの古くさい、職人の世界にも科学的な人材育成プログラムが必要だ、“観て学ぶ”ことは古くさい、前時代的だといって取り入れた「科学的」な人材育成プログラムで人は育ったか。マニュアルをつくり、ああだこうだと手とり足とり指導して、人は育ったのか。

むしろ黙っていないと、かえって伝わらない時代にもなった。語るよりも観る。それも現場で観るだけではない。デジタル時代となり、ネット・スマホで時空間を超えて必要な情報を入手して「観る」ことができるようになった。現場で観て考え、ネット・スマホで観て考え、イメージをしたことを実践して身につけ育つ時代となった。

とてつもなく短時間で成長できる環境はすでに整備されているのにそうならないのは、“そもそもがない”からである。自分がどうなりたいのか、自分はどうしたいのかの像がない。だからなにを観たらいいのかわからない。なにを聴いたらいいのかがわからない。だから黙っている親方から伝わってくるものがなにかが、つかめない、見えないものが観えない。

これが無くなった。“古賀稔彦さんみたいになりたい”と多くの柔道家はめざした。それが「自我」である。それが無い人が増えた。ただし自我は固定的でない。常に揺れ動く。変化・成長しつづける。弟子がその姿を観て成長していく親方自身も自我を磨きつづけなければいけない。

コロナ禍で進むデジタル時代、大きく成長できるチャンスが訪れているのではないだろうか。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)


〔日経新聞社COMEMO 3月31日掲載分〕


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