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2021年01月28日 by 池永 寛明

【時間篇】速いということにどれだけ意味あるの?


ひたすら歩いた。朝出発して夕方まで10時間以上、家内と二人で歩きつづけた。東京で働いていたころ、週末ごとに東京から京都に向け東海道53次の旧東海道を歩いた。江戸時代の人たちが12~13日で歩いた東海道を、週末1泊2日で20日かけて歩いた。


1.なぜ歩きつづけたのか


道中、なんのために歩いているのか?と訊かれたが、別段理由がなかった。あるのは日本橋から三条大橋に着くこと。事前に旧東海道の道をネットで調べ、1泊2日ひたすら歩き目的地に着いたら、また東京に戻り、翌週に前週着いた東海道のその地に戻って歩いた。


歩きはじめはいろいろなことを考える。抱えている案件を考えたり、その週におこったことを考えながら歩く。アイディアが浮かぶことがあるが、歩いている中で答えを解くこともある。江戸時代の風景が残っているところも一部あるが、大半は現代の道路なので、周りを観ることもなくただ歩く。歩いている内になにも考えないようになる。
箱根や薩?峠、金谷宿から日坂宿の坂道などの難所などでは筋肉痛になりながら、黙々と歩く。周りの自然・風景に溶け込んで、なにも考えない時間が長くつづく。そのとき、ハッとするような良いアイディアが浮かぶ。考えつづけているときよりも、なにも考えない時間のあとにやってくる「なにもない無の時」に浮かんだアイディアの方がよかったりする。

東海道53次を歩いていたのは、情報過多から情報を整理し思考しつつ「無」の時間を得るためだったのかもしれない。日常のONからOFF、そのOFFのなかの「無」の時間をつくるためだったのかもしれない。


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江戸時代、江戸日本橋から京都三条大橋の東海道53次(492km)を12泊13日で歩いた。幕末に蒸気船が登場して3日。1896年に急行列車が新橋と神戸を上り17時間22分、下り17時間9分で走り、1965年に新幹線ひかりが東京と新大阪を3時間10分、1992年に新幹線のぞみが2時間30分、2045年にはリニア新幹線によって1時間7分で結ぼうとしている。

このように輸送技術の進歩は移動時間を短くしていった。技術は時間の概念と時間の感覚を大きく変えた。日常においての「思考時間」を減らした。電車や飛行機だけではない。インターネット・スマホなどによって、いつでもどこでもとなり、日常生活・仕事の面倒くささが解消されて、便利となり、効率化した。時間が短縮されたが、人が考える時間を減らした。あらゆることの時間が速まり、時間をかけてじっくりと物事を考えなくなった。だから座禅やヨガなどで瞑想・沈思黙考する非日常な時間・場を求めるようになった。

 

2.せまい日本、そんなに急いでどこに行く


50年前の交通安全スローガンである。交通スピードの出しすぎを注意するためのものだったが、コロナ禍の現在、このスローガンが妙に気になる。


高速道路を走っていると、ついアクセルを踏んでスピードをあげてしまう。しかし時速60?から80kmにあげても、1時間20km早くなるだけ。わずか20%。1時間=60分の20%は12分。その12分早く着く必要がどれだけあるのだろうか。その12分に、どれほどの意味があるのだろうか。


スマホをクリックしたら、その荷物は明日届く。
どうしてそんなに急いでモノを欲しがるのだろうか。良いモノはすぐ欲しい、注文したらすぐ欲しいという気持ちもわかるが、頼んだら3日かかろうが4日かかろうが来るものは来る。明後日ではなく明日でなければならないという必然性はどれだけあるのだろうか。一日違いではないかというが、意味が全然違う。たとえるならば、この1日の違いは


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くらいの差がある。12分早く着く、1日早く着くために速くするということはどうなのか?なぜ速さが求められるのだろうか。


「変化が速くなったからだ」といったりする。ではなぜ変化が速くなったのか。競争が激しいから、変化が速くなった。ではなぜ競争が激しくなるのかというと、容易に競争できる環境がととのい、だれもが競争者として参入できるようになったから、競争が激しくなった。


では競争に誰もが参加できるということは、良いことか悪いことか。競争は大事だというが、そもそも競争が激しいことは良いことなのか悪いことなのか。いつからか、競争することによって品質が高まりコストダウンが進むので、「競争は良いことだ」という前提で考えるようになった。その前提条件を疑いもしなくなった。


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なんでも速くなんでもすぐになった。
速いことが良いとみんな考えるようになった。たとえば携帯電話事業が弱くなったのは、メーカーの携帯電話のモデルチェンジが早すぎたこともその一因だったのではないか。欧州はモデルチェンジを日本ほど頻繁にしないが、日本は毎年モデルチェンジをする。そうすることでコモディティ化したというが、商品性を陳腐化させた。iPhoneもそう。毎年毎年、次から次に新商品を出すことで市場にインパクトを与えるという販売戦略だろうが、10万円以上もする機種が毎年毎年モデルチェンジして市場に投入されてくる ―― これって良いことか悪いことか、疑問である。


速いということに、どれだけ価値があるのだろうか。
アクセルを踏み込み時速60kmを80kmにして目的地に12分早く到着したとして、そこでうまれた12分をどのように使っているのだろうか。おそらくその12分を有効に使えている人は、そう多くはないのではないだろうか。その時間でコーヒーを飲んだり、スマホチェックするくらいだろう。それはそれで意味はあるだろうが、ゆっくり行くことで社会的コストが下がるようであれば、ゆっくり行くという選択の方が正しいということになるのではないだろうか。


効率を1%あげるために何年も何十年も費やしたり、時間を短縮したり時間厳守するためにとてつもないエネルギーを投入したり、無理したりしてきた。

目に見える得ることの裏には、目に見えない失うことがある。
これまでのことが普通にできなくなっているコロナ禍、これまであたり前だと思ってきたことを考え直す、前提を疑ってみることが必要ではないだろうか。なぜそれをしているのか?なぜそうしないのか?なぜそれをしているのか?これまでの前提を疑ってみることが現在大切ではないだろうか。


東海道53次を踏襲したあと、四国八十八ヶ所を巡礼し、コロナ禍で中断しているが、西国三十三所を歩いている。考えることと、考えないこと、無になる時間を求めて。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)


〔日経新聞社COMEMO 1月27日掲載分〕



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