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2020年06月11日 by 池永 寛明

【起動篇】日本は岐路に立っているのに―コロナ禍どうする (1)


「日本は岐路に立っている」という認識をしている人はどれだけいるだろうか。現状のコロナ禍期の選択が、コロナ禍期のみならずコロナ禍後を大きく左右する立ち位置と考えている人はどれだけいるだろうか。この選択が未来を変える機会と捉えている人はどれだけいるだろうか。しかしながらこの嵐を遣り過ごせば、じつと耐えたら、なんとかなると思っている人が多いのではないだろうか。


「コロナ禍後の社会はコロナ禍前ではない」と言っても、本音では“大袈裟だよ、結局はなにも変わらない、元に戻る”と思っている人たちがいる。“戦後最大の危機”だというが、自分は大丈夫だと考えている人たちがいる。そりゃそう、そういう人はずつと在宅勤務していても職を失うわけでもなく給料の心配をしなくて済む。その人たちは現在から変わりたくない。既得権益側は、変わったら困る。そんな彼らの言説は、なにも胸に響かない。


みんな同じことをいう。何処かの誰かが言った話を、差し障りのない言説に変換して繰り返す。責任が問われることを微妙に外して、騙(かた)る。学生にコピペするなというが、自分で観たり聴いたり調べもしない。自らで考えもせず、他人の話をさも自らの話とする。そんな人の言説が社会で横行する。平時ならまだしも、非常時ではそれは困る。なぜそうなるのか。先を読むのは難しいとみんないう。しかしその人たちは先行きどころか「現在(いま)」が掴めていない。現在の本当の姿を見ていない。だから市場観・生活観・経済観・産業観といった社会観がずれる。


コロナ禍で、3ヶ月冬眠をしていた。自分の人生で最も勉強したかもしれないくらい。睡眠時間を削ってコロナ禍社会のことを考えていた。コロナ禍社会を過去に学ぶため、幕末・明治維新から敗戦の75年間の書籍や映像を、戦後から現在の75年間の書籍や映像の数々を読んだり視聴したりして、過去から現在・未来の時間軸に流れる「時代の基本潮流」とはなにかを考えていた。


コロナ禍冬眠で毎日、日経新聞を隅から隅まで読んでいた。朝5時から7時まで、テレビニュースを聴きながら、2時間かけて日経新聞を読んだ。新聞の一面から最終面まですべてのページを読む。目を通すというレベルではない。新聞の隅から隅まで読む。すべて読む。政治・経済・技術・教育・生活・文化も、機械・金属・流通・観光・食品・外食も、日本国内も世界各国の記事も、すべて読む。あっと思った箇所に、ラインマーカーを引く。アイディアが浮かんだら、忘れないように新聞にメモも書く。そして読んだ記事ごとに、自分はどう思うと問う。そして次の記事を読み、また考える。これはどういうことだろうと。その日の新聞の隅から隅まで紙面全ページを読む。自分の関心のある分野もそうでもない分野も、予断を待たず網羅的に読み、頭にひたすら注ぎ込む。1週間1か月2か月3か月、隅から隅まで読み、記事ごとに自分はどう思う・どう考えるという「訓練」をした。テレワークを終わったら、夕刊も隅から隅まで読む。大学生から、“どんな勉強をしたらいいですか?”と訊かれることが多いが、「新聞を隅から隅まで読む、3か月、半年間、そういう読み方をつづけたら、社会の全体像が観えてくる」と勧める。しかし大半の人はそれをしない。


かくいう私も、コロナ禍の前は、いつも同じ欄ばかりを読んでいた。時間がないことを言い訳に、必要な情報に目を通すだけだった、自分の仕事に役立つと思うような記事だけを眺めていた。ネットもそう、同じような情報を目を通す。会社もそう、同じ分野の人たちとばかり仕事をする。業界用語が通じる人と仕事をする。会社の外にでてもそう、同じ世界の人と会う。同質な人と会う。その人たちといたら、心地よい。ときたま自分の違う分野の人と会ったら、話が合わない。だから違う分野の人とは会わないようになる。
みんな、それぞれの「専門家」になった。自分の「専門」のなかにいて、自分の「専門」以外には立ち入らない。そのかわり他人にも自分の所に入ってもらわないように願う。「相互不可侵」が暗黙の了解となった。だから多様性だとか多面的は口だけ。自分と違う分野の人と会うのは苦手、自分と違うことを言う人を敬遠する。


お互いの世界に立ち入らないようになると、自分以外のことが見えなくなり、わからなくなる。「隅から隅まで新聞を読む」というのは、市場観・生活観・産業観など社会観を身につける訓練の基礎でもある。
狭い分野の「専門家意識」を引持ちつづけ、引きずることを捨てられない人が多い。なぜか。現在60歳代や50歳代の人たちが持つ時代速度と現在の時代速度が大きく違っているのに、それを認めないからだ。だから50歳代60歳代の時代速度のズレが社会における機能不全を起こす。「私の専門」は大学をでて、せいぜい数年しかもたない。自らの「専門」が現在どうなっているのかをつかみ、機能不全した現在を見切り見限って、<リセット→再構築→再起動>を短期間にまわすことが、コロナ禍後の社会において求められる。すでに世界と比較して相当遅れているデジタル・AIという社会インフラ技術の基本をおさえつつ、コロナ禍後を生き抜ける力を身につける。




 コロナ禍冬眠中、法人営業をしていた時に知りあったお客さまたちと、何度も「コロナ禍をどう考えたらいいのか」という議論をした。物流、観光、建築、不動産、商店街、飲食、食品、大学、自治体などの人々と、オンラインで議論した。緊急事態宣言下の緊迫している現場で、今日・明日・明後日に向けた「選択」の議論をした。このような「本物にまみれる経験」こそが社会の本質を掴むプロセスである。リアルにまみれる経験がネットワークを活かせる。



これが「本当の学び」である。大学・大学院までの学校での学びに、社会人の学びなおし、そして生涯学習といった人生ステージごとの学びではない。一生ずっと継続的な学びである。
現在そしてこれから、大学・大学院までの学校での学びで一生通用するというような時代速度と時代深度ではない。一生かけて学びつづけなければならない。学びなおしではない。一生ずっとつながりつづける学びである。「専門性」のアップグレードだけではない。次々と「専門分野」をつくり、その専門分野と専門分野を幾重も繋いでいく。つまり一点集中型の富士山型ではなく、山の峰々が繋がる立山連峰型の学びが求められる。この学びがコロナ禍時代に求められる。これらの学びを通じて、未来を拓く「市場観・生活観・産業観など社会観」を身につける。



世の中全体を広く深く掴める社会観・市場観を身につけ、コロナ禍後の社会像と未来のあるべき姿の想像する力と未来の姿を創造する力を育む。そしてコロナ禍後の社会で日本的なモノ・コトづくりをおこなう。「日本的な翻訳・編集力」にて、コードをモード化する。物事の本質(コード)を読み解き、日本的な様式・方法論(モード)をつくりあげる。それまでのこと、新しいことを取捨選択し、機能不全したものはリセットして、新たな価値を創造する形をつくり、それを速やかに社会に問う。そして試行錯誤して、洗練して、多様化する。高速で、このサイクルを回す。
コロナ禍後に生き残る企業は、すでに<リセット→再構築→再起動>の準備をしている。その差は、コロナ禍後にすぐに顕れる。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞社COMEMO 6月10日掲載分〕