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2020年05月21日 by 池永 寛明

【起動篇】みんなおなじことを考える日本人―コロナ禍社会キーワード(3)「二項対立を超える」


ある有名な歌手がラジオ番組で、「東京でなくても、仙台も名古屋も福岡も、十分、都会。いま、この番組は、東京の自宅から全国のリスナーに向けてリモート放送している。だとしたら、自分が東京にいる意味がわからない」と話をしていた。どこに住んでいても、支障はない。そうなったら、元に戻らない。では東京にいる「意味」はなんだろう。価値観を含めて、明治維新とりわけ昭和時代から築きあげてきた「東京一極集中」の成立基盤が崩れようとしている。


東京は「シンボル性」で成り立っている。「首都である」というシンボルのもとに、全国から東京をめざすというスタイルが主流だった。もうひとつは、東京に「情報が集まる」と思うから人が集まる。それが、今回の新型コロナウィルス感染リスクを回避するため、東京から外に出る・家の外に出ることができなくなって、仕事を依頼してくれる人とも直接に会えなくなった。


しかし思っていた以上に、家にいても、ネットとスマホがあれば、仕事のやり取りは問題なくできた。だったら「東京にいなくてもいいじゃないか」となり、仕事を依頼してくれるお客さまは、東京にはいない「遠い場所」にいるすごい人と仕事とするようになるかもしれない。そして東京にいる人にとっての仕事の依頼人との物理的「距離の近さ」というアドバンテージがなくなる。こうしてコロナ禍が日本社会における「場」の変革をあちらこちらで引き起こしていく。デジタル技術が社会・起業変革を実現するプラットフォームは、すでにできあがっている。


これまで日本を牽引してきた「集中の経済」が不利益となろうとしている。これまで集中・集積によって生み出された過剰分を付加価値に転換させてきた。経済・社会・都市を発展させてきた成功方程式「集中戦略」が、「コロナ禍で集中する→感染リスク→不利益」となろうとしている。これまでの「条件利地」よりも、「条件不利地」が優位になるという「逆説」がおころうとしている。


都市に交通・公共や商業サービス施設を集中させることによって利便性が高まれば、人が集まり、経済性が高まるものと考えて街をつくってきた。その集中が逆にリスクをかかえることになる(それは現代にはじまったわけではなく、古代の都市より「都市」がもつ根源的な課題だった)。営業の自粛要請から都市の店舗が休業するなか、営業自粛していないドラックストアやスーパーに人が集まった。集中を避けるために営業自粛を要請したのに、営業自粛していない場所に人が集中するという現象がおこっている。


たとえば東京のタワーマンション。
「都心機能」が利用できるという前提でライフスタイル・タイムラインをデザインしたが、その前提である都心機能が麻痺している。都心に近いウォーターフロントでの都市生活というコンセプトの核「都心」の意味を失った。しかもウォーターフロント周辺には生活環境が少なく、コロナ禍で外出が抑制されると、「必要十分条件」が成り立たなくなる。もともと都心の素敵な店や施設で買い物をして飲食し遊んでタワーマンションに帰るというアーバンライフスタイルが成立しなくなったら、どうしたらいい。短期ならそれなりに我慢できるが、ずっとつづくとなると、どうしたらいい。


都市(urban)がダメになったら、郊外(suburb)に代替する。urbanかsuburbかという二項対立で考える。すると代替したsuburbに人が集中して、そこが新たなurbanになる。
デジタル技術によって、どこにいても仕事はできて、快適にすごせて、しかもコストは安くなり、収益があげられる可能性があることに、コロナ禍のなかで多くの人は気づきだした。本当は5年前でも10年前でもできたのに、日本の多くはそれをしなかったが、そういうことが社会のいたる場所でおころうとしている。集中する基盤をつくれば利益を生むということが幻想だったと気づき、分散的に物事を考えるようになる。



それが、世界では動き出していた。
アメリカのすべてが、ニューヨークでおこるわけではなく、シリコンバレーやシアトルでもおこる。中国のすべてが、北京や上海でおこるわけではなく、深?でもおこる。さらに本社をスリム化して世界に拠点をおこうという「分散化」を進めていたところに、コロナ禍がおこり、ただちに社員の在宅勤務化を高め、「会社から離れて働く」ことを普通にしようと、次の展開に向かっている。それに対して日本はなんでもかんでも東京だが、秋田でおこったり愛媛でおこったり滋賀でおこってもおかしくない。


すぐれたスキル・センスを持った人たちがすぐれた事業をすれば、その場所は集中か分散かという二項対立を前提としなくていい。シアトルで、マイクロソフトやグーグルが成立しているのはそういうこと。深?で、ファーウエイやテンセントが成立しているのはそういうこと。今まで「東京でしか成立しない」と思っていた事柄が、すぐれた能力・アイデア・センスがある人たちがいれば、「東京でなくてもできる」ということになる。


都市はこれからどうなるのだろうか。
都市から地方・郊外に移って、それで仕事と生活が成り立つ経験が積み重なれば、流れは元に戻らない。同じ仕事をするならば、緑あふれる心地よい風が流れる場所の方がいい。そこで、仕事の成果があがり、家族と快適に過ごす暮らしができれば、元に帰りたくない。
現代はデジタル技術がなかった20年前ではない。リモートワーク・オンライン授業・オンラインショッピング・オンライン診療などを支える技術はできあがっている。やるかやらないかだけの問題である。ほとんど人がいない会社の本社と分散拠点と自宅をつなぐネットワーク化、需要と供給のネットワーク化を活用しようという人々の「必然」がうまれば、新たな社会は「集中する」というスタイルから「つなぎ連携する」というスタイルへと、社会の戦略重心は移る。


当面は集中構造で社会・経済が成り立つ構造を残しながら、分散してテレワークが進めていく。このリモートワークが定着・進化して10年経てば、大きなオフィスフロアにみんなが集まって働いたという経験がない人が増え、それが普通になる。もうひとつ大事なことがある。意図して進めるか強制されて進めるかでは、本質・効果は大きく異なる。


緊急事態宣言から、家の外に出られなくなった。
遠い自宅からよそ行きで通勤して都心のオフィスライフを演じて夜に家に帰るスタイルから、一日中を普段着で身近な生活環境で心地よく暮らすスタイルに変わろうとしている。それに伴なって、家の中の形、近所の形、街の形は変わっていく。

また東京や海外に行って自分の世界を広くしようとか、かわいい子には旅をさせよといった価値観が日本にはある。ウチの世界でうまくいかなかったり、ウチの世界での活動に限界を感じ、ソトの世界に学びに行った。“活動範囲を広くすることがいいことだ”という価値観を持って、国内だけでなく世界を旅して学んで帰ってきたが、それが「リスクのプロトコール」となった。
これからコロナ禍のなかで、必然的に行動範囲は狭くなる。すると、今まで注意して見ていなかった家の近所や地域社会もいいところじゃないかと良さを再発見し、そこで人間関係を広げたり深めたりしていくことになる。

 

すでにコロナ禍前から進んでいたが、ネットで人間関係をつくる人が増える一方、リアルの人間関係が弱まってきたと言われてきたが、コロナ禍で人と人との出会い方や育て方が、根本的に変わっていく可能性がある。しかしバーチャルな人間関係ができても、どこかにリアルの場面がないと満たされない。どこで、どのようにリアルを感じることができるか、バーチャルとリアルのバランスが、これからの社会・ビジネス・学校における大きな課題となる。


集中か分散という「二項対立」も同じ。
集中でなければ分散だという「二項対立」の発想は危うい。コロナ禍のなか、そういう現象が起こっている。都心での外出が禁止となった。すると茅ヶ崎で大渋滞になる。みんな同じ発想をするから、都心がだめだったら郊外がいいと考え、郊外の公園や湘南が混雑する。みんな同じ発想をする。そこは大丈夫じゃないかと思って行動する。今までのところに行けなくなると、みんな同じことを考えるから、そこが混雑する。集中か分散かの二項対立は、このように簡単にひっくりかえる。


戦略論的にいえば、裏をかこうとする人がいればいるほど、裏は裏でなくなる。コロナ禍後のことを考えている人はいっぱいいるが、みんな同じようなことを考える。これからの社会は、リモートワークだオンラインショッピングだキャシュレス社会だとか、みんな同じことを言う。それでは、差別化にはならない。二項対立的な価値観・世界観で物事を考えると、みんな同じになり、本質から外れていく。


「そもそも、これ、いらなかったのでは?」と考えることが二項対立を避けるうえで大切である。東京になんでもかんでも集まることが問題であって、東京集中がリスクならば、「代替として大阪でどうか」と二項対立で考えてはいけない。
「これからは東京ではない、ではどこなの」と問われたら、「どこでもなくていい」というのが、コロナ禍後社会の答えである。なにかを代替するという考え方をすると、みんな同じことを考えるので、そこにまた新たな集中が生まれる。「どこだっていい」という発想で、物事を考えてスピーディーに展開していくことが求められる。


みんな集団幻想をもち、どこかになにか価値があると思うと考えるが、多くは同じ場所を選ぶ。だからそこが新たな集中となり、リスクが高まる。だったらみんなが考えないような場所にする。お洒落な町ならここ、そこがだめだったらそこ、そこもダメならあそこがお洒落だと発想するのではなく、お洒落と関係のない意味をもつ場所にするという思考・行動様式に変える。

 

なにか行動をするときには、動機とか原因がある。それではないモノやコト、イノベーションを模索するためには、動機や原因との関係をいったん白紙にする。東京に行けば良いモノやコトがあると考えていたが、東京に行けないとなると、じゃどこに行ったら良いモノやコトが手に入るのだろうと考えてはいけない。良いモノやコトはどこだって手に入る、体験できると考える。そうでないと、ジリ貧になる。日本は、この10年20年、それで失敗してきた。


都心がだめならば準都心・郊外だというような単純な「二項対立」ではなく、前提条件をクリアして考える。これまでの経緯とか原因とか動機で結びつけられる関係をゼロにしてみる。それは、前提を否定したり代替するのではなく、前提条件を白紙にして考える。


今回のコロナ禍対応で、私たちは白紙にした取り組みをいまおこなっている。テレワーク・リモートワークである。「会社のオフィス」に集まって仕事するとリスクがあるから、分散してきた。人が増えた会社オフィスの代替として「サテライトオフィス」に、人をシフトしたりしてきた。しかし今回、二項対立でない「家で仕事をする」と発想したのは、白紙で考えた選択肢である。だからたんに働く場所が変わっただけでなく、仕事とはなにか・会社とはなにかの再定義を現在進行形で考えるインパクトがあるのである。私たちはいま時代の大変換をおこなっている。コロナ禍がきっかけで、そうなっている。私たちはコロナ禍収束時に、元に戻すか戻さないかが日本の未来にとても重要。


集中か分散かの二項対立を乗り超える。集中がだめならば分散とすると、そこに集中がおこる。会社のオフィスに人がいっぱいいたらハイリスクとなるから、サテライトオフィス ― これが二項対立。そうではなく在宅・家で仕事をするということが二項対立を越えた取り組み。都市か地方・郊外かの二項対立を越えた新しい「意味」を持った場所をさがして育てていく。モノづくり、暮らし方、生き方も、同じ。コロナ禍後社会の論点はこれである。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞社COMEMO 5月20日掲載分〕