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2020年05月08日 by 池永 寛明

【起動篇】あなたはなにが不安?―コロナ禍不安の所在


「自分は取り残されるのでは、乗り遅れているのでは」―在宅勤務や一時帰休で自宅にいると、不安になる。集団で仕事をしていたら周りが見えるので安心するが、自宅で一人仕事をしていたら周りが見えないので不安になる。周りの情報を集めようとするが、もしかしたら自分がいない間に、自分はいらないというレッテルを張られているのではないか、自分は出し抜かれようとしているのではないか、捨てられるのではないだろうかと、不安に駆られる。


職場でリストラされていく同僚の姿を見ると、自分に置き換えて心が乱れる。いつか自分もそうなるのではないか。コロナ禍は、まさにそれ。これから、なにが失われるかが分からないが、なにかが失われていく可能性があるのではないだろうか。いまの会社はどうなるのだろうか、これまでの仕事はあるのだろうか、仕事はなくなるのではないだろうか、今の暮らしはどうなるのだろうかと不安になる。


みんなが感じている不安は、「先行き」が見えないこと。
インフルエンザは予防注射をうつても、毎年インフルエンザが繰り返し発生することで根絶できていないとのアナロジーでいえば、コロナも収束できてもコロナに終わりがない。コロナはどうなるのだろうか。これから先行きが見えない。


わたしたちは失われたことにはなんとか克服することはできるが、これから失われるかもしれないことには耐えられず不安が募る。この不安が社会全体を後退させていく。


 「緊急事態宣言が終るまでの辛抱・我慢だ。頑張ろう」のエールが、いまの日本社会に広がる。
いまのコロナ第1波が落ち着いても、さらに第2波が来る第3波が来ると聴いても、“この第1波を乗り切ればなんとか”と思おうとする。


インフルエンザは、なぜ広がるのか?
インフルエンザは、なぜ毎年日本国内で同時に発生するのか?そのインフルエンザとコロナウイルス、なにがちがうのか。コロナウイルスもインフルエンザがごとく、全国・世界に広がっている。インフルエンザ感染の予防のために注射を打つが、インフエンザは毎年流行する。このコロナも懸命の努力でこれから終息するが、終息することと根絶することとはちがう。コロナは繰り返す。コロナの治療薬・ワクチンが開発できたらコロナは終息すると考えるのは、コロナ禍の「本質」を見ないようにするというマインドが働く。


コロナ禍の本質は、「不安」である。
コロナ罹患への不安。先行きがつかめない不安。元の社会・会社・生活に戻れないかもしれない不安。社会的生存への不安・帰属への不安が諸現象を引き起こす。


コロナ後の社会は、コロナ前ではない。
コロナがなにかを変えるのではない。コロナがきっかけとなり、いろいろな物事やいらない事柄が根源的に浮き彫りになり整理されていく。
にもかかわらず、「なんとかなる」という前提で辛抱・我慢しようとしているが、「なんとかならない」とわかったとき、人は辛抱や我慢をしつづけられるだろうか?


「明けない夜はない」「止まない雨はない」といったメッセージが流れる。不安を和らげるメッセージとして理解できるが、コロナ自粛が1か月といっていたコロナ自粛が2か月となり、3か月となり、半年間となり、半年が1年間となり、1年間が2年間となったら、「なんとかなる」との前提のもと、辛抱・我慢・頑張ろうのままでいられるだろうか。社会全体で考えたとき、どこかに閾値がある。どこかでポキっと折れるタイミングがある。みんなで、励ましあい助けあっても、根源的には解決しない。


わたしたちは、それを経験している。
第二次世界大戦もそうだった。この戦争は早期に終わるだろうという前提で、我慢して励ましあった。開戦当初には、いろいろなトピックがおこる。どこどこの戦場で大勝利した、この作戦でうまくいったといったトピックが報道される。我慢や辛抱に対して、刺激的な明るい未来を予感させるニュースに沸き立つ。
今回のコロナも、やれ感染者が減っただのやれ薬が効いただのというニュースに期待感が高まる。しかし太平洋戦争のように、1年が経ち2年が経ち3年が経つと、そんなニュースに一喜一憂する人は減る。戦争が長期化して、先行きが見通せなくなって、社会を覆っていったのは悲壮感だったろう。
戦後社会が、戦争前の社会に戻ったかというと、そうではなかった。戦争が終わったとき、社会は一変した。今回、コロナを戦争になぞられる世界のリーダーに多いが、そのことも言っているのだろう。


頑張ろうという問題だけではない。
頑張ってなんとかなるのならば、不安にならない。一人一人が努力して、なんとかできることならば、不安にならない。やればいいだけの話。
なにをやってもどうにもならないとき、頑張るだけではいけない。人が不安に陥ったとき、「こうしたら、その状態から変われる」ということが示され分からなければ、不安は消えない。
災害ならば「元に戻す」というゴールに向けて、立ち上がって行動できる。しかしコロナ禍の「禍」は、元の社会に戻れないこと。だから先行きが見えないことへの不安は募る。コロナ後社会の姿・形が見えて、それに向けた解決策が作れなければ、“どうしたらいいのか”いう不安はつづく。


コロナはきっかけである。
白村江の戦い前後、壇ノ浦の戦い前後、応仁の乱前後、関ヶ原の戦い前後、明治維新前後、太平洋戦争前後など、その前の社会とその後の社会の大変革を日本は経験している。


それまでの社会はリセットされるが、新たなことばかりではない。機能不全していたものが淘汰され、外から持ち込まれた新たなものに転換され、その前の社会で生み出されていたが取り入れられなかったことが主役になったり、長い間日本が承継してきた物事や文化など、新旧の多様な事柄が融合され、新たな社会・文化を創造してきた。


コロナ後の世界もそう。コロナ前に起こっていたこと、多くの人が見向きしなかったこと、気がつかなかったこと、コロナ禍で再確認された、忘れていた大切なことなど融合され、10年20年かけて、新たな社会を築き磨きつづけていく。


しかしその社会は、コロナ前社会ではない。
コロナをきっかけに、働き方や暮らし方の価値観・行動変革、それを支えるデジタルシフトが強制的に進め、ものすごい勢いで進行し、長期化するに伴い、それらが不可逆となって社会的価値観を変える。集中から分散へ、集団から個人へ、都市から郊外への移行といった単純な「二項対立」ではない社会変革が進んでいく。これからのコロナ後社会はどうなるのかについて、次回以降も順次考えていく。 


今こそ、コロナ冬眠準備の時期である。
今ある資源・資産を「絶対必要なこととそうでないこと」「大切なこととそうでないこと」を棚卸し、それを踏まえて、整理・調達・学習・統合という準備をおこなって、積極的冬眠をする。冬眠だが寝るのではない。冬眠中も世の中を四六時中観察して、機会が到来したら立上がり、一気に起動する。「窮すれば即ち変ず、変すれば即ち通ず」(易経)である。


黄色いノウルシがこの時季に群生する琵琶湖畔でテレワークしながら、コロナ後の社会の姿・形をずっと考えつづけている。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞社COMEMO 4月30日掲載分〕