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2020年03月27日 by 池永 寛明

【起動篇】サヨナラだけが人生だ



9年前の3月末、地震後の混乱がつづいている東京から大阪に帰った。
2011年3月11日の東日本大震災発生の6時間前に、東京勤務から大阪勤務への人事異動発令があったが、東京で3月末日までの3週間を東日本大震災に伴なうエネルギーにかかわる復旧・復興活動にかかわった。会社員生活のなかで最も忙しい3週間をすごすことになるが、東京でお世話になった仕事の関係者に殆ど挨拶ができずに、東京を去った。
それから9年。東京経験の記憶は薄れつつあるが、東京時代の区切りができず東京時代を引きずることとなった。東京にいた3年間が総括できず、東京での3年とそれ以降の日々がだらだらとつながる。


大阪の女性童話作家と話をした。
家を出るとき、“行ってらっしゃい”と声をかけられるが、昔は「おはようおかえり」と祖母から声をかけられた。今はスマホがあるので、どこにいるのか、何をしているのかがわかるし用事があればスマホで話ができる。
しかし昔は家を一歩出たら、どこに行っているのかもわからなかったし、連絡が取れなかった。家を出ている間は、“どうしているのだろうか”とずっと気になった。だから“無事に家に帰ってきてや”という思いで、「おはようおかえり」と声をかけた。
今はあまり言わなくなったが、“男子、家を出れば七人の敵あり”ともいった。内では守られているが、外はこわかった。なにがあるかわからなかった。家から外に出たら、用心しないといけなかった。ここにも、「内(ウチ)と外(ソト)」という日本人の“社会的精神構造”があった。


今でも高齢世代は家族の誰かが飛行機に乗ると聴いたら、大丈夫だろうかとヒヤヒヤする。 旅行すると聴いたら「方違神社」に行って安全祈願もした。車もこわい。事故をおこして人に迷惑をかけないだろうか、帰ってくるまで心配で気になる。なにかあったらこまる、無事にちゃんと目的地に着いたのかが気になる。スマホを上手に使えないので、こっちからは連絡できない。子どもや孫は、うんともすんとも連絡してこない。子どもや孫たちが外にいっている時間がとても心配。“おばあちゃん、心配してたんやで”というと、“なんで心配するの?大丈夫や”と平気な顔で返事する。

高齢者は心配性なのか?なにがちがうのだろうか。“スマホのあるなし” “スマホが使える使えない”のスキルの習熟度の違いだけではない。戦争の時に、この朝の別れが“今生の別れとなった経験”があるかないかの違いもあるのではないか。“緊迫感”が薄れている。だから人と人との関係がいい加減になる。それは、東日本大震災での災害経験を持つ人々の割り切れない、引きずりつづける心情にもつながる。

 

「卒業式を中止したら、どのようにしてお別れの言葉をいうのだろう?」と、女性童話作家が呟いた。
新型コロナウィルス感染防止のため、「卒業式」を中止する学校が多い。戦争や阪神淡路大震災・東日本大震災発生時も卒業式を中止したことがあるが、今回は全国的に大規模におこっている。
卒業式は学生としての行事の最後であり、卒業証書が授与される“儀式”ではある。実務的には卒業証書を卒業生に郵送したらいいといえるかもしれないが、卒業式はそれだけではない。


卒業式は区切りである。
小学校の6年、中学校の3年、高校の3年、大学の4年、大学院の2年・5年の区切りである。卒業後もずっと濃密につながる同窓生もいるが、大半は卒業したら一生会わない(卒業後に同窓会もあるが、会えない人には会えない)。「またどこかで」「またいつかね」と卒業式の日に声をかけあうが、“またねは一生ない”ことをわかっている。
卒業式とは区切りをつける場である。だから “卒業証書”を郵送したらいい、学校は資格取得しておわりというだけではない。「サヨナラ」がいえる交流・対話の場がないということは、その時代を区切り、総括できないことになる。学生時代というプロセスを「総括」できず、次の時代・フェーズにそのまま移行すると、ずっと引きずることとなる。


「サヨナラだけが人生だ」
唐代の詩人于武陵の詩「勧酒」についての井伏鱒二の訳詩のワンフレーズである。卒業式や送別会などで、有名な3行目・4行目がよく使われる。

 勧酒 (于武陵)
 勧君金屈巵
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離

〔井伏鱒二の訳〕

 コノサカヅキヲ受ケテクレ
 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

出会いには、必ず別れがある。“サヨナラだけが人生だ”― 別れや旅立ちに「人生」を感じるのが日本人。そして“ハナニアラシノタトヘモアルゾ”の、ハナ=桜 ― 3月下旬の卒業式・送別会・退職などの別れのシーンには、“桜”がセットされる。そしてそのあとの毎年の花見で、「卒業式」「送別会」のあった時代の空気・記憶を再生産する。その「卒業式」や「送別会」と「花見」がないということは、“時代”の区切りができず、引きずることとなる。新型コロナウィルス感染防止への適切な措置をおこない、「別れの場」をつくることは人生においてとても大切ではないだろうか。

 

「本来であれば、ご挨拶に伺うべきところ、メールにて失礼させていただきますこと、お許しください」
という電子メールでの人事異動の挨拶が多くなった。“本来であれば、ご挨拶に伺う…”と思うのならば挨拶に行くべきだが、お世話になった人や関係の深かった人にすら挨拶に行かなくなった。かつて3月・4月の異動時期は別れの挨拶に来られ、ちょっとだけ話をするが、その挨拶が「その人との記憶」を区切りその後に残した。どうしても行けない人には、転勤の挨拶状を郵送した。その後、電子メールの普及と組織の細分化によって別れの挨拶に来る人が減り挨拶状が減り、3月末日のパソコンの受信トレイが挨拶電子メールだらけとなっているのは、なぜか。


わざわざ足をはこぶことが面倒くさくなり、“便利なものができた”と電子メールを使って挨拶するようになり、あっという間に“電子メール挨拶一斉送信”が主流となった。サヨナラを電子メールやLINE・メッセンジャーで送信して伝えるようになった。別れが“淡白”となった。


しかしとても便利な電子メールでは、“行間”は埋まらない。
LINEやメッセジャーでは記憶・思い出・空気・ニュアンスが伝わりきらない。デジタル技術で、社会が便利に効率的にコストダウンができるようになっても、本人・実物に“五感”で接して対話しないと、大切なことがつかめず伝えきれない。


デジタル技術によって、バーチャルへのアクセスは容易に・広範囲にできるようになったが、逆にリアルへのアクセスがしにくくなった。ネットワーク・バーチャルの時代だからこそ、リアル・本物が求められる。にもかかわらず、リアルとバーチャルが遊離しはじめている。本来リアルがあるからバーチャルが活きる。バーチャルとリアルの接続とバランスが求められる。


新型コロナウィルス感染防止によって、無用なこと・無駄なことが社会からどんどん外されていこうとしている。なんでもかんでも流されて、大切なことを失ってしまうかもしれない。しかし効率化していいこと・捨ててもいいこと・無くしてもいいことと、残しておくべきこと・大切にしておくべきことという「本質」とを峻別していかないといけない。


そもそも、それはなんなのか、なんのためのものなのか、なんのためにしているのかという「本質」、親と子とはなにか、家族とはなにか、会社とはなにか、近所とはなにか、地域とはなにかという「本質」を外してはいけない。

コロナのあとは、コロナの前とはちがう時代となる。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞社COMEMO 3月25日掲載分〕