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2019年11月04日 by 池永 寛明

【耕育篇】見限り見切れない日本 〜日本のこれからの産業のカタチを考える (4)


日本は「何枚、売れたのか?」のままだが、世界は「何回、聴かれたか」である。世界の音楽産業はストリーミングが中心となりつつあるのに対して、日本は依然CD。日本はCDをなかなか見切れず、音楽市場でのストリーミングへのビジネスモデル転換を見極められていない。ガラケーからスマホへの転換に遅れたのも、キャッシュレス社会への遅れも、ビジネスモデル転換の先般の例は、枚挙に暇がない。


ビジネスにしろ、モノづくり、ヒトづくりにしろ、大切なのは、「①見込み→ ②見定め→ ③見極め→ ④見限り→⑤見切る」であるが、今の日本に足りないのは、「③見極め ④見限る ⑤見切る」ことができないこと。



「①見込む」とは、?その人が、それが有望だ”と思い、勘定に加えること。「②見定める」とは、納得できるまでよく見ることだが、大抵この段階で失敗する。ほとんどが「見込み」レベルで決めてしまうので、「見定める」ところまでいかない。「③見極め」とは、“見て知る”こと。十分に確認する、物の真偽を検討したうえで深いレベルで判定すること。「④見限る」とは、“見込みがない”と、あきらめること。「⑤見切る」とは、あきらめて見捨てること。


日本をダメにしたのは、「③見極めて、④見限って、⑤見切る」ことができなくなってきたからかもしれない。
日本人は「そんなことしたら可哀相とか、ひどい」と言って、なかなか見切れない。たとえば人材。若いときに、この人は「①見込みがある」と発掘して、様々なキャリアを経験させる。しかし期待外れであっても、“見込み印”をつけたまま、20年も30年も「平行移動」させる。大きな失点しなければ、途中で見限られたり見切られずに、そのままトップにつけたりする。当然ながら実力がないから、なにもできない。そして会社、組織をダメにしてしまう。それこそ、社員が悲劇であり、お客さま、つまり日本の悲劇となる。


年功序列時代は、上にとって“居心地”がよかった。その“年功序列社会”が大きく崩れていくなか、上の者が下の者を「見込み見定め見極め見限り見切る」だけではなく、下の者から上の者を「見込み見定め見極め見限り見切る」視線を浴びせ、場合によれば下の者に上の者が見切られる時代となった。人材もそう、事業もそう。見限り見切らない。


なぜ「見限り見切り」ができないのか?それは人間関係が過度に「機能的」となり、人間関係が恩情主義になっているからではないだろうか。“お前と、昔、いっしょに仕事したよな。飲ましてあげたよな…”というように、気持ち悪いくらい粘着質な情を絡めてくる。


「見定め見極め見限り見切る」ことを“残忍だ”“非情”だと思ってしまう。しかしそんなことをいっているうちに、組織そのものが沈んでしまう。沈んでいく人を助けるためには、生き残る人がいなければならないが、なにも見限り見切らないので、みんな一緒になって沈んでしまう。
沈没しかけている船で、“私はいいよ、私のことは見限ってくれていいから、お前たちの思う通りやれよ”という人はなかなか出てこない。そうでなく、“どうして私だけワリをくうの?私だけ責任とらないといけないの?”という。みんな、いっしょじゃないかといって、みんな沈んでいく。それが見えている人たちは、さっさと去っていく。


十七条憲法「和を以て貴しとなす」の逆効果である。今まで「見込み見定め見極め見限り見切る」ことは、社会的に認められた権威とか、年輩者とか、年長者といった人たちにしか許されなかったが、彼らが見限り見切らないうちに時代は大きく変わりつつある。古いものを、意味がなくなったものを、若い人が見限り、見切りはじめだした。


音楽ビジネスもそう。「見込み見定め見極め見限り見切る」が欠けている。CDの明日の見定めができず、日本ではストリーミングは受け入れられないとか、ストリーミングにしたら年寄りは利用できないだろうからCDは捨てられない…と言っているうちにCDを見切りストリーミングサービスをはじめたスウェーデンの会社に世界の音楽市場が席巻された。


なぜ日本は見極め・見切りができないかといえば、古い人が威張りすぎているからである。若い人に任せばいいのに、若い人に任せようとしない。古い人が古い感覚のまま、実権を握りつづけ、新しい人に席を譲らない。先着者優位で後から来た人を排除する。見切らないから、時間が無駄にされる。ゆったりとした時間速度の頃ならまだよかったが、これだけ早い時代速度では時間の無駄遣いは致命傷となる。


“見限ったら見切ったら、可哀相だ。それは、そこは、残さなければ大変なことになる”―という議論になりがちである。“そこは、彼は、彼女は一所懸命しているから見切られないとか、わが社はこの商品で大きくなったのだから絶対にこれはやめられない”というが、仮に見限り見切って失ったとしても、必ず代替のものがでてくる。


伝統工芸だからとか、この技術・技能、このやり方はわが社にとって大切だといって、過度に評価したりしているけど、無くなって困るものは無くならない。これは真理である。無くなったものをノスタルジックに懐かしがることはあるかもしれないが、無くなって困るものは無くならない。しかし反対は必ずしも真ではない。必要なものが必ずあらわれるかどうかはわからない。なぜかというと、それが必要であることに気がつかないかもしれないから。


無くなっていこうとするものを懸命に守ろうとするが、守る必要はないものまで守ろうとしている。そんな時間は日本にはない。そんなことよりも、市場・時流を見極め、見限り見切り、「次」に進まなければならない。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞社COMEMO  10月3日掲載分〕