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2019年06月18日 by 池永 寛明

【起動篇】 なぜまちの寿命が終わるのか


電車のなかでサラリーマンの会話が耳に入ってきた。「ヨーロッパの美術館に行って、とても変な気持ちになった。名画といわれる古い作品はいくらでも写真を撮っていいのに、新しい作品は観るだけで写真を撮ってはいけない。古い名画は写真を撮ってインスタにあげてもいいけど、新しい近代・現代の作品はダメ。なにかおかしくない?」とサラリーマン二人が話をしている。


新しい作品は作者が存命であったり著作権の制約がかかるから、その作品の写真を撮ってはいけない。一方、何百年前の名画は著作権がきれているので、「原画」の写真撮影は自由。それが「答え」なのだが、二人の話を耳にして、別のことを考えた。


価値あるものが「古い」というだけで粗末にされ、「価値があるかもしれない」新しいものがチヤホヤされているのではないだろうか。本当に価値あるものが意外に放っておかれ、価値の基準があやしく、これって本当にいいの?と疑問におもっているが、まわりが「いいね、すごいね」というから、自分もとりあえず「いいね」といって持ちあげることがある。なんでもかんでも新しいモチーフがとりあげられ、イノベーションだとか独創的だとかいって、ありがたがる風潮がある。


時間軸的に「新しい」というものがもてはやされ、チヤホヤされるが、いつの間にか消えてしまう。一方、とても価値あるものなのに、古いというだけで捨てておかれるものがけっこうある。それはなぜだろうか。今の時代、価値の基準や物事の本質を見極める能力がおちつつあるような気がする。


名画は自由に撮れ、新しい作品は撮れない。SNSにアップできる名画は後世につながり、変にハードルをあげた新しい作品は次の世代につながらない。それはビジネスも同じ。


何十年、何百年もつづいている会社は「老舗」と呼ばれ、時代の流れを読み解き、お客さまに選択されるよう事業を適合しているが、「古い」ということで「時代に合っていない」とみなされ、逆に仕組みだけの、時流に乗った、しかし二番煎じ三番煎じの、たんに「新しい」だけの新しい会社がチヤホヤされたり、もてはやされている。しかし10年後に、老舗は残っている可能性が高いが、新しい会社はどれだけ残っているのだろうか。


かといって、単純に「昔のまま、古いからいい」という伝統的、懐古主義ではいけない。過去から現在にかけて、そのモノ・コト・サービスがつづいてきている本質と方法論という文化をつかんでいないから、新しいモノ・コト・サービスにお客さまを奪われてしまう。


「新しくうまれた」モノ・コト・サービスも次にどのようにつなげていくのか、つづけていけばいいのかという視点がないから、短期でおわってしまう。つなげていこう、つづけていこう、繰り返していくという想いをモノ・コト・サービスに織り込まないので、一過性でおわってしまう。それはなぜか。


物事を考えるスパンが短すぎるのだ。

物事に携わる人、プランナー、作り手自身のライフサイクルで、物事を考えすぎている。たとえば、まちづくり。かつてのニュータウンがオールドタウン、シルバータウンになってしまったことの大きな理由はまさにこれ。


まちは子どもの代、孫の代へと次の時代、次の次の時代へと承継、つなげていかなければならないのに、ニュータウンを構想した人たち、プランナーと呼ばれる人たちは、自分のライフサイクルを基準にデザインした。自分の叶わなかったライフスタイルの夢をそのまちで実現しようとした。だから住む人が老いるとともに、子どもや孫たちがまちから去り、まちも老い、まちの寿命が終わろうとしている。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


日経新聞社COMEMO  613日掲載分