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2018年04月06日 by 池永 寛明

【場会篇】  「ポン菓子」という食の記憶が人々をつなぐ

 


1000年前の絵画や彫刻や仏像、建物は、形として残っていたら、1000年前のモノを現代の目で見ることができる。しかし何百年前の料理や菓子の名前やレシピが書かれた本は残っていても、その料理や菓子そのものが現代に残っていなければ、どんな味だったのか、どのようにしてつくったらいいのかは現代では判らない。食べものは、“無形”文化財である。どんなときに、だれと一緒に、どんなところで、どのように食べたかという“食風景の記憶”とともに、“味の記憶”が人の五感のなかに残る。しかしその食材やその料理をつくれなければ、家族や友人や、子どもや孫には正確に伝えられない。このようにして失われた食材や料理は数多くある


大砲のような円筒型の“穀物圧力・膨張機”をリヤカーでひいてくる職人が近づいてくると、子どもたちがわぁっと、家からお米と砂糖を持って集まってくる。“ドカン・ドカン”“ポーン”とはじけ、蒸気とともに、お米がふくらみ、「ポン菓子」ができあがる。ふわふわして、甘くて美味しい。


ポン菓子は、意外に新しい。約120年前にアメリカでこの製造方法が偶発的に開発されて1904年のセントルイス万博で紹介された。日本に導入されたのは大正時代。たんにポン菓子という完成品を買うのではなく、職人さんがポン菓子をつくるのが楽しかった。ワゴンをひいたロバのパン屋さんとともに、舗装されていない路地で走りまわった子どもの頃の記憶が残る。自動車が普及する前の昭和30年代まで、お菓子やパンは行商人がまちに売りに来た。


地域よって「ポン菓子」の呼び方がちがう。大手メーカーがつくったのではなく、地域地域でそれぞれがつくっていたからだ。私は行商のおじさんがつくってくれた記憶から「ポンポン菓子」と呼んでいたが、「パンパン菓子」とも、「ばくだん」とも、地域や年代によっていろいろな名前で呼ばれている。行商としてのスタイルはなくなったが、菓子という形で今も残っている。ポンポン菓子を製造する風景と音が今も記憶に残る。


愛媛県の西条市丹原町は、ポン菓子を「パン豆」と呼んでいる。この地域ならではの心あたたまる物語がある。この地ではお米のことを「マメ」と呼んでいるが、結婚式に親から子どもへ「まめに元気で暮らしてほしい」との想いを込めて、「パン豆」を縁起物、引出物としてわたすという。


この地は、私も歩いたことのある四国88ヶ所の60番札所の石鎚山の近く。西日本最高峰の山からの伏流水と澄んだ空気で素敵なお米がつくられる。この美味しいお米に、親が子どもを想う気持ちを込めてつくられてきた「パン豆」を現代人のニーズ・嗜好と融合・結合させて、新たな輝きをもった菓子を生み出された。


この地ならではの必然性が物語に込められた、ここならではの菓子が地域の農業とデザイン会社、地域の人々と地域の菓子会社をつなぎ「パン豆」を生み、全国、世界に直接発信する。地域独自の歴史、想いが丁寧に重ねあわされた“ポン菓子”が子どもの頃の“食の記憶”をよびおこす。地域の文化を大切にした、地域独自産業の可能性を感じた。


(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)


日経新聞社COMEMO  28日掲載分