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2023年06月16日 by 山納 洋

【シリーズ】街角をゆく Vol.1 赤穂



こんにちは。エネルギー・文化研究所の山納洋(やまのう・ひろし)です。

僕は2014年から「Walkin'About」という、参加者の方々に自由にまちを歩いていただき、その後に見聞を共有するまちあるき企画を続けています。

その目的は「まちのリサーチ」です。そこがどういう街なのか、どんな歴史があり、今はどんな状態で、これからどうなりそうかを、まちを歩きながら、まちの人に話を聞きながら探っています。

この連載ではWalkin'Aboutを通じて見えてきた、関西のさまざまな地域のストーリーを紹介しつつ、地域の魅力を活かしたまちのデザインについて考えていきます。


第1回目にご紹介するのは、兵庫県赤穂市。JR播州赤穂駅から坂越駅あたりです。


赤穂は忠臣蔵として語り伝えられる赤穂事件ゆかりの地として知られていますが、今回は昔からの塩の産地としての赤穂、また北前船の寄港地として栄えた坂越に注目してみたいと思います。


赤穂は千種川河口部にできた集落です。平安時代には東大寺の荘園が成立し、戦国時代には郡代により支配され、1615年に池田政綱が入封して赤穂藩が成立しました。1645年に池田家の改易に伴って浅野家が入封しましたが、3代藩主浅野長矩(ながのり)は1701年、赤穂事件によって切腹を命じられ、浅野家は取り潰しとなりました。その後永井家、森家と藩主が変わりました。市内には赤穂城跡や赤穂義士ゆかりの史跡が数多く残されており、毎年12月14日には赤穂市最大の催しとして赤穂義士祭が行われています。

また古くから塩田が栄え、「日本第一の塩を産したまち」として日本遺産にも認定されています。



      赤穂市立民俗博物館


播州赤穂駅から南西に1.5kmほど行ったところに、赤穂市立民俗博物館があります。この建物はもともとは専売公社の赤穂支局で、明治41年(1908)に完成しています。ちなみに日本で塩の専売制度が敷かれたのは明治38年(1905)。目的は日露戦争の戦費調達でした。



   日本塩回送(株)の塩輸送用ダンプカー


民俗博物館 の北側には、日本塩回送(株)赤穂支店があります。創業は大正8年(1919)。瀬戸内海の塩回送問屋を母体とする6社が合併し、専売局から海と陸の塩運送事業の認可を受けて設立されています。現在は海運、港湾運送、倉庫、貨物自動車運送などを手掛けておられます。社屋の前には緑色のダンプカーが何台も並んでいますが、これは赤穂で作られた塩を運ぶためのものだそうです。


        赤穂あらなみ塩株式会社


民俗博物館の西側には、専売公社時代の塩倉庫が残されています。写真にみえる「赤穂あらなみ塩株式会社」は1979年創業の、塩や食品・化粧品などの製造販売会社です。

その南側には、かつては広大な塩田が広がっていました。



  赤穂市立海洋博物館に再現されている入浜式塩田


千種川の河口付近にある赤穂海浜公園にある市立海洋博物館(播州赤穂駅から南西に3.5kmほど)の中には、かつての塩田が再現されています。入浜式塩田では、潮の干満の差を利用して海水を引き入れ、毛細管現象によって砂を湿らせた後に水を蒸発させ、塩分の付着した砂を集めて海水をかけ、鹹水(かんすい)と呼ばれる塩分濃度の濃い塩水を採っていました。

赤穂塩田の開発は、池田家から浅野家、そして森家へと引き継がれ、幕末には広大な入浜式塩田が千種川両岸に開かれました。そして塩づくりの技術は瀬戸内海沿岸を中心に各地へ伝えられました。



        (株)日本海水赤穂工場


民俗博物館から運河を渡って南に行くと、(株)日本海水の赤穂工場があります。正門の正面には古い建物が見え、そばには塩竈神社が祀られています。

日本海水の前身は、大正2年(1913)に設立された赤穂西浜塩業組合です。ここから南には広大な入浜式塩田は広がっていました。昭和28年(1953)から昭和33年(1958)にかけて、専売公社の方針により、この地域の塩田は流下式塩田に替わりました。これはポンプによって海水を動かし、木の枝をかけた枝条架(しじょうか)という装置に滴らし、風の力で水分を蒸発させて鹹水を作る仕組みです。それまでの人力に頼っていた製塩と比べて、生産量は大幅に増加しました。流下式塩田もまた、海洋科学館の中に再現されています。


 

 赤穂市立海洋博物館に再現されている流下式塩田


その後、イオン交換膜法という、海水を電気分解して効率的に鹹水を作る製造法が開発されたことで、広大な敷地を要する塩田は不要になりました。そして昭和47年(1972)には流下式製塩法は完全に姿を消し、西浜塩田は工場用地として開発されています。日本海水は赤穂西浜塩業組合にルーツを持つ赤穂海水と、化学工業を祖業とする新日本ソルトが合併してできていますが、イオン交換膜法を導入、製塩を画期的に変えたのは後者でした。


最近注目を集めているのは坂越港(さこしこう)。播州赤穂駅から東北東に4kmほどのところ。瀬戸内海に面する天然の良港として古くから栄え、17世紀半ばに西回り航路が開かれたことで大きく発展しました。赤穂で作られた塩はここから北前船に積み込まれて運ばれていました。昔からの街並みが残されていて、最近は古い建物を活かしたカフェや雑貨店などが増えてきています。ただ、播州赤穂駅からは自転車でもかなり遠いですが…

 


              旧坂越浦会所


 

               坂越のまちなみ

 

坂越には、赤穂化成という会社があります。赤穂東浜塩業組合がそのルーツですが、同組合は昭和22年(1947)に化成品部門を設立しています。昭和46年(1971)、イオン交換膜法の導入による塩田廃止のタイミングで赤穂化成株式会社を設立し、塩田製塩時代の塩を求める「自然塩運動」をきっかけに、にがりを含んだあら塩「赤穂の天塩(あましお)」を昭和48年(1973)に発売しています。


塩の専売制度は平成9年(1997)に廃止されました。その後全国で、海水を直接煮詰めたり、天日で乾燥させたりして作られた自然海塩が登場しました。赤穂化成では“塩の自由化”に先立って海洋深層水に着目し、平成10年(1998)には「天海(あまみ)の水」の、翌年には「天海の塩」の商品化を果たしています。つまり、塩田という風景はなくなってしまいましたが、赤穂は今も塩の名産地であり続けているのです。



※【シリーズ】街角をゆくは、毎月1回お届けいたします。


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