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2022年03月17日 by 池永 寛明

【起動篇】コロナ禍後を考える漢字「自尊」(上)

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忘れられない11年前の海岸のシーンがある。自衛隊員たちが巨大津波に運ばれて行方不明となった人を探しつづける。土砂のなかから発見したご遺体に「敬礼」しつづけていた姿を思いだす。生命は掛け替えのない尊いものである。コロナ禍後社会を考えるキーワードとして、日本が失いかけている「尊」という言葉を考えたい。

 

 

1.なぜ自衛隊員が敬礼するのか?

 

尊という漢字は重く深い。尊は「そん」「とうとい」と読むが、尊とはどういう意味かを理解している人は多くない。よく使われる漢字として「尊敬」があるが、尊は「とうとい」で敬は「うやまう」である。「とうとい」と「うやまう」はどうちがうか。ここから考えていきたい。


うやまう(敬う)には対象が必要で、とうとい(尊い)には対象がない。つまり敬うことは行為、作為である。たとえばカトリック教会はマリアさんを聖母として敬っているが、他宗教はマリアさんを敬わない。宗教が変わり人が変われば、敬う対象は変わる。


「敬」は作為だから、昨日までその人を敬っていたのに今日は敬わないことがある。一方「尊」は昨日まで尊ければ今日も尊く、ずっと尊い。だから「ご本尊」とか「釈迦三尊像」というように、仏像には尊という言葉がつく。ただ尊という漢字は、尊厳・尊敬などそんなに多くない。


一方敬は、敬礼・敬服・畏敬・敬語など多い。たとえば敬老は年寄りを敬うこと。しかし年寄りは自分と同じだと思う人は、年寄りを敬わない。このように敬は作為だから、そうしなければと思っている人もいれば、そう思わない人もいる。このように尊と敬の意味はちがう。

 

驚くことに「自敬」という言葉はない。”自分を敬う”というのはありそうでない。あるのは「自愛」である。この「愛」も作為である。自らを愛するが、自らを敬うということはない。しかし

 

「自尊」はある

 

敬は対象を要求するが、尊は対象を要求しない。尊は存在そのものが尊である。つまり自尊とは自らそのものが尊であるという意味である。

 

「法律用語」では、人間の“尊厳”というように使われる。意外に流してしまいがちだが、とても意味深い漢字である。

人命は尊く、掛け替えのない存在だから、自衛隊員が1ヶ月も2ヶ月も土砂に埋まった人を探す。ご遺体として発見されたときに「敬礼」する。自衛隊はなにに敬礼しているのか。自衛隊員は台風・地震などに見舞われて亡くなられた人の死の尊厳さに敬礼している。

 

人が亡くなられたとき、その人のことを想う。「なぜこの人が、その日、ここで死ななければならなかったのか」と想う。その人の死の意味はとても尊い。

 

 

2.尊が薄れた日本

 

いつからか日本では、食卓に1個しか食べ物がなかったら、まっさきに自分が食べようと争うようになった。昔だったら、子どものため、親のため、弱い人のために渡した。それが、自分がなによりも大事で、自分が可愛いいとなった。自愛になった。日本人から、自尊が薄れていき、自愛が高まった。

その薄れていこうとしている尊ってなに?尊なるものがよく分からない。「親ガチャ」「家族ガチャ」という言葉が流行っているが、自分の父親・母親は偶然の産物で、自分は「あたり」「はずれ」だと思うようになった。いつの間にか、日本人は「自尊」をなくし、「自愛」が高まった。

  

日本社会から「尊」が薄れた。

かつて仏教の仏像や神道の自然が「尊」の対象だった。生き物、植物は尊だった。いつからか綺麗な花は尊で大事にするが、雑草は美しくないから尊ではないと抜くようになった。「これは尊で、あれは尊ではない」というのは、尊ではない。

仏教は生命あるものは尊いものだから殺生しなかった。赤い血が流れる生命あるものの生命を奪ってはいけないとされた。精進料理の食材は殺生しなかった。そういう生活文化を大事にしてきた。それが、口では「生命は尊い」というが、生命を絶って肉を食べるようになった。
「自然は尊い」ともいっている。しかし「この自然はいいが、あの自然はよくない」と選択するようになった。それはある意味、自我的自愛行為といえる。自分の自我が、尊いものと尊くないものを選びだした。

 

サンマ漁も同じ。10トンのサンマは尊いが、1尾のサンマは尊くない。なぜか。10トンのサンマは金になるが、1尾のサンマは金にならないからだ。自我である。金が尊い。儲かるか否かで物事を判断するようになった。日本社会全般がそうなった。

 

 

3.あなたの同期がトップに立ったら

 

日本社会から、尊なるものがなくなっている。とりわけネット・スマホというツールを手にして、人の尊厳を蹂躙するようになった。人を完膚なきまで叩くようになった。だれかが言い出すと、それに便乗して、相手を叩きつけるようになった。

 

人のことを尊と思っていたら、そんなことは絶対にできない。自分が尊ではなく、自分がいちばん大切と思うようになった。自分のことを自尊でなく、自愛と思っているから、他人を叩ける。

 

他人昔もあったのだろう。だからこういう言葉が生まれた。

 のことをなじったり批判したりするが、逆にそれが自分に降りかかってきたらどうなるのか。自分が他人にするときはなにも感じないが、自分がやられたら傷つく。それは

「己の欲せざるところは人に施すなかれ」

 

自分が他人からされたら嫌だと思うことを、他人にはしてはいけない。そういう文化だったのに、制御がきかなくなっている。

  

 「品性」である。この品性が尊である。自分がしたことを自分がされたら、どう思うか。自分がされたら、いやなこと困ることはやってはいけない。「己の欲せざるところは人に施すなかれ」とは品性の教えであった。


それが自尊である。自分が嫌だと思うことを他人にはしてはいけない。自分が嬉しいことを他人に施す。そういう品性を持つ人が尊であった。それは教えられてつくるものではなく、自然に備えていくものだった。様々な人との交流のなかで、いろいろなことを学び、時間をかけて自らの品性として育んだ。そうして身につけていく自尊を大切にしてきたのが日本社会だった。

  

それが薄れた。人から家族から社会から街から国から、品性・品格がなくなり、尊がなくなった。戦後、とりわけバブル経済時代前後から尊が薄れていった。他人からどんなことを言われようと、金儲けしたものが勝ちと社会が持て囃すようになった。そんな人以上に金儲けしたいと考える人の心には品性がない。

 

前の車がノロノロしているからといって、スピードをあげて追い越す。出し抜き、前に出る。そのようにしてボクの勝ち、ワタシの勝ちと思う人があらわれた。勝つか負けるかが価値基準となった。

しかしそういう風にして勝った人は、敗れた人の悔しさが理解できているのだろうか。そもそもその人は悔しさを経験したことがあるのだろうか。

 

北京五輪のスノボ女子・ビッグエア決勝で、岩渕麗楽選手が女子初の大技を挑戦した。残念ながら失敗したが、果敢に攻めた勇姿をたたえるために海外選手がゴールした岩渕選手に集まった。これがリスペクトである。他の選手も何百回、何千回もその大技にトライして失敗して悔しさを知っている選手たちだから、その大技がどんなにすごいかが分かる。だから集まって、岩渕選手をリスペクトした。

 

リスペクトとは尊敬。尊なるものとして敬っている。その人が並外れた努力をしていることを、みんなは知っている。スケートボードしかり、卓球しかり、体操しかり。だから素晴らしい演技を讃えあう。リスペクトする。金メダルをめざし、優勝をめざし、鎬を削りあっているライバル同志ではあるが、すごいことをみんなが祝福する。

大リーグの大谷翔平選手の活躍に、大リーガーみんながリスペクトする。大リーグ史に残る記録を残しただけではない。大谷選手は2018年に靭帯損傷の再建手術を乗り越え、並外れた努力をして復活できたということをみんな知っているから、大谷選手をリスペクトしている。

 

そこで、質問である。

 

あなたの同期が会社のトップになったとしたら

あなたはリスペクトしますか?

 

トップとなった同期をあなたはリスペクトしますか?なぜあいつがトップになるんだと思っていませんか?敗北したような気持になっていませんか?ディスっていませんか?

 

もしかしたらあなたがその立場になったかもしれない。にもかかわらず、なぜあなたはリスペクトしないのか。それはなぜかを次回に考える。

 


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)

〔note日経COMEMO 3月16日掲載分〕

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