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2020年10月26日 by 池永 寛明

【耕育篇】能に学び、オンライン時代を生き抜く



コロナ禍で増えたオンライン会議で、よく沈黙がおこる。
沈黙には2種類がある。次の言葉を考えている沈黙と、なにも考えていない沈黙。それぞれの沈黙への対処によって、展開が大きく変わる。会話・対話、会議や接客も、この2つの沈黙への適切な対応が必要だが、オンラインの場合はよりむずかしくなる。カメラオフの顔出しNGとなると、さらにむずかしくなる。


 ・次の言葉を考えている「沈黙」 ← 聞き手は黙ってこのまま待つ

 ・何も考えていない「沈黙」 ← それまでの話を整理する

 

■「意味わからん訳わからん」がさらに増える。
話し相手の言っている「言葉」の意味はわかるが、どのようなことを伝えようとしているのか、なにをいいたいのかという「意味」がわからなくなり、「意味わからん訳わからん」となる。
話し手は伝えたいことを相手に伝わるような形の「暗号」に変換(「エンコーディング」)して話そうとするが、その話し手の「暗号」の意味を受け手が解読・読み解け(「ディコーディング」)なければ、意味わからん訳わからんとなる。お互いの「暗号」が共有できないからであるが、コロナ禍後の私たちはオンライン会議・オンライン接客・オンライン営業において、「意味わからん訳わからん」を乗り越えることができるだろうか。


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■ 仕事の大変革 ─ メール革命とオンライン革命
メールは、仕事の方法論を大きく変えた。メールは大量の人に情報を一気に、スピーディに伝えるという仕事の世界での「イノベーション」をおこしている。「宛先(TO)」「(CC)」「(BCC)」を駆使することで、対話・打合せ・会議といったオフィスでの仕事を減らすという方法論を手に入れ、生産性があがった、楽になったといって喜んだが、問題がおこった。


かつて「書き言葉 < 話し言葉」だった職場が、メールによって「書き言葉 > 話し言葉」となった。黙々とパソコン、スマホをながめ、「情報を送る」ビジネスメールがオフィスを飛び交う。メール以前のオフィスと比べて、大量の玉石混淆の情報が流通する。しかしメールでは、仕事の「間」「余白」が埋められない。オフィスで人と人との対話が減り、個人ワークが増え、チームでのワークが減る。雑談やちょっとした打合せの「人々の声」が鬱陶しがられる。職場・仕事には健全なノイズが必要だが、オフィスは静かになりすぎた。


そこに、コロナ禍でリモートワークが強制的にはじまった。あっという間にオンライン会議・オンライン接客・オンライン営業がおこなわれるようになった。テレワークはオフィスを飛びでて自宅からも出て、自分が好きな時間に好きな場所で自由自在に仕事ができる(Activity Based Working)というカタチになろうとしている。


情報のデジタル化とデジタル情報の活用によって、紙をやりとりしていた仕事からデータのやりとりへと仕事のカタチが変わり、“一人でする仕事・二人でする仕事・みんなでする仕事”・“仕事をこなす・仕事をうみだす・仕事を深める・仕事を広げる”へと仕事の定義が変わっているのに、それを見直さないで、「みんな、会社に集まって、同じところでいっしょ」というワークスタイルだった価値観のまま、これまでの前提条件を変えずにオフィス代替として在宅勤務・リモートワーク、オンライン会議をしている。だからどうもしっくりこない。


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だからオンラインはダメだといって、やっぱりオフラインだと考える。バーチャルがだめならばリアルだと考える。しかしリアルかバーチャルではない。リアルとバーチャルを融合してこそ、AでもないBでもないCを生みだせる。五感はリアルの方がすぐれていると思いがちだが、視覚・聴覚はバーチャル・オンラインの方がすぐれている分野もでてきている。バーチャル・リアリティもあるが、リアルとバーチャルを組みあわせて、1+1=2でなく、1+1がXにもYにもできる可能性がでてきた。


■感じる力と想像する力を能に学ぶ
たしかにオンラインで得られることは多い。しかし失われることもある。
AとBを混じりあわせてCをうみだすためには対話と観察が必要である。日本は、対話と観察を通じて感じる力と想像する力を駆動させ、日本の優れた精神的デザイン性を磨き独創的な日本的なものをうみだしてきた。日本的なものをつくりあげてきた人として感じる力と、想像する力が弱まっている。


「そもそも能を見ること、知る者は心にて見、知らざるは目に見てみるなり、心にて見るところは体なり。目にて見るところは用なり(「至花道」(世阿弥)」
能を見るのは誰か。見る立場の人間ではなく、見られる立場である演者が能を見る。室町時代から650年もの間、伝えつづけられてきた能に、テレワーク・オンラインへの臨み方の本質が含まれているかもしれない。


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能の舞台にシテとワキが立つ。そこには饒舌な対話はない。シテの感じていることはワキには完全には分からないかもしれない。だからワキはシテを感じようとする。シテを見ているからワキは存在を許される。観客もそれと同じく、相手がいて初めてそこに自分がいるという日本人の根源的な感覚を知ることにつながる。能の舞台を見ながら、こんな風にあのシテは感じているのではないか、同時にこんなことも「感じ」ているのではないかと「想像」することが自らの発見に通じる。

また能を情報の「処理→分析→理解」の現場として見ることができる。多様なる情報を混じりあわせて新たな価値を生みだす対話を可能にする話し手・聴き手の中間(まんなか)に位置する場として捉えることもできる。


オンライン会議をはじめとするテレワーク時代に必要な「感じる・想像する」力、はたまたアバターでオンライン会議に出席するスタンスのあり姿を能に感じる。コロナ禍後社会を生きるヒントを、日本文化の神髄のひとつ、能から学べないか。コロナ禍の今、観世流能楽師・山本能楽堂 山本彰弘代表理事との、対話で掘りおこしたい。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永 寛明)


〔日経新聞社COMEMO 10月21日掲載分〕