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2020年07月02日 by 池永 寛明

【起動篇】だれかが「37.5℃」になった ― コロナ禍は大断層 (1)


ゲートで全員の検温をした。その時に、誰かが「37.5℃」だったら、どうなるのか。ある施設に行くため、関係者とマイクロバスで1時間移動した。マスクをして、ソーシャルディスタンスを考慮してバス移動をした。目的地の施設のゲートスタッフがバスに乗りこみ、ひとりひとりの検温を行った。


そのとき、若しもバスのドライバーが「37.5℃」だったら、どうなる。バスは密室だったから、その施設に全員が入れない。誰かが感染したかもしれない、大変なことになった。パニックになる。その後の帰りの移動はどうなる。それだけではすまない。こんなことになって、そもそもなぜこの施設に行こうとしたのか、誰が言いだしたのかという話が浮上してくる。検温前までの空気とは、180度以上急変した悲劇的な展開になる。このように、コロナ禍は「博打」的な確率の世界に入る。


この3〜4ヶ月のコロナ禍の強制的な不自由さのなか、“人が集まったらうつるかもしれない” “傍に行ったらうつるかもしれない”といった感染リスクのもと、人間集団そのもののあり方が問われるというのがコロナ禍の本質でもある。
従来の人間関係は「好きか嫌い」だった。この人スキだから一緒に仕事をしたい、この人はキライだから、かわかりたくない、近寄りたくないといった好き嫌いは、「選択」の問題である。


しかしコロナ禍の人間関系は、好きか嫌いかではなく、コロナウィルスに罹っているのか罹っていないのかである。罹っているのか否かは、「観察」的にはわからない。


好きとか嫌いは、その人の顔を見て、こういうタイプの人は嫌い、こういう話し方をする人は嫌い、こういう行儀の人は嫌いだと感じて、自ら避けるという行動をとる。しかしきちんとした服を着ている人が感染しているかもしれないし、逆に汚らしい恰好をしている人が感染していないのかもしれない。見た目、観察では分からない。確率の世界でもある。


そうすると、「人間関係の距離感」を自分と相手との間でどのようにとるのか、好意のチャンネルを開くのか、関係性を遮断するプロトコールを発するのかは、相手に判断はつかない。


コロナ禍で、会社での会議や接客するとき、「ここに集まっているこの人たちは本当に大丈夫かな」と思う人が出てきた。自分が他人に感染させないように、ソーシャルディスタンスをとったり、マスクをつけなさいと言っているけど、自分が外からコロナウィルスにうつされることに対して、強制的な指導はない。外出することや三密になることは注意されているが、誰に会うかについては制約されていない。


ヨーロッパは自分の父親・母親にも会えない。日本は外出「自粛」だったが、海外の多くの国は外出「禁止」だった。外出禁止の裏返しで、他人からの訪問を受けるのも禁止にした。


ということは、自分の母親であっても許可が必要だった。日本は「自粛」だから、“お母さん、ワタシ、大丈夫だから“といって、母親を訪ねることもできた。人間の接触そのものを制約したり禁止したりする世界の動きに対して、日本はそこまで国が強制的にやらないといけないのだろうかと思いつつも、気持ちのなかで「この人、大丈夫かな」と思うようになった。


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作為が無作為によって180度変わる

人はだれかとお互いに作為しあって結果を出していくのがビジネスである。コツコツと準備をして一所懸命に創意工夫してお客さまに喜んでいただいてお金を頂戴することがビジネスである。


この「作為」をしているなか、「無作為」な事柄が発生して、それまでのことを台無しにしたり、180度違う結果にしてしまうことがある。


コロナ禍は人間社会のあり方が根底から問われている。コロナ禍で、みんなが「自粛」して在宅した。緊急事態宣言が解除され、行動・活動基準が緩和され、テレワークから会社に出社するようになった。ある会社で全社員を集めて、「かつてない大変な時期ではあるが、ソーシャルディスタンスをとるなど、コロナ禍後を先取りしたビジネスを展開して、みんなで頑張ろう」といったその社長が、壇上をおりて体温を測ったら38℃だったとしたら、どうなるだろうか。それまでのことが台無しになり、すべてパーになることだってありうる。


人間は「無作為」になじむ。好きな人ができて結婚を決めたりするような運命的な事柄というのは「無作為」なことが多い。しかし「作為」的に他人と関わるのが社会であって、会社だってそう。すべての人が馬が合う人ばかりではない。嫌な人もいるが、なんとかチームワークをはかろうとする。こういったことすべてが「作為」である。


そんな作為的な事柄を進めているなか、無作為=「感染している」という人がいたということが発覚したとき、それまでの作為的な活動の結果は、180度反対の意味を持つことになる。どうしてその人を使っていたのか、どうしてそんな人が出てくるのかと。


先ほどの全社員に挨拶した社長のように、その人がいないと成り立たないような当事者が「無作為」的に罹患している可能性がある。そういう場合、リーダーが組織しているチームそのものが否定されることになる。人間社会・生活のなかで自発的に制御が不可能な無作為な事柄で話をご破算にする可能性がある。こういうことって、人類史上初めてではないだろうか。


昔から、疫病・伝染病はあった。封建社会の時代ならば、親が農民だったらおじいさんも農民で、さらにその前の代も農民だというのが普通だった。商人だったら、先祖代々、商人だった。そこには、なんら作為はなかった。


そういう時代に、流行り病に感染したら、生業がつぶれたり、家族がみんな村八分にされたりした。現代は民主的な時代だから、みんなが自分の感性とか自分の利害で作為的に構成されるのが今の社会・経済である。そこに無作為な出来事が発生することで、話が頓挫したり台無しになったり、ネガティブになることがある。


先の全社員にコロナ禍後のビジネスの話をした社長が降壇後に測ったら体温38℃だったり、娘が結婚したい人を連れてきたその人が実は感染していたことが発覚したら、突如、悪夢に巻き込まれることになる。その人の性格が変わったわけでも、その人の人となりが変わったわけでもないが、その人が感染していることで、もしかしたら自分が罹患して死ぬかもしれないと恐怖を感じる。そうすると、娘はその人と結婚するだろうか。一緒になりたいと思っていた相手が体温38.5℃になっただけで一緒になるという選択ができなくなることが、コロナ禍期に起こる可能性がある。


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コロナ禍期は大断層時代

コロナ禍で「大断層」が起きていると思うか思わないのか。コロナ禍後はコロナ禍前には戻らないのが本質である。


にもかかわらず、対処療法的に人と会わないようにするとか、非接触にするためにどうするのかといったテクニカル対応が目につく。表面的な問題を解決したらいいというわけではない。


人と人とが会えない集まったらいけないならば、テレワークをしよう、非接触でなければならないならば、非接触ですむ方法にしよう。タッチしなくていい「タッチパネル」を導入するとか、セルフレジで人と会わなくて済むようにするとか、物流を非接触ですむプロセスにしようとしている。


そんなテクニカルなことばかりがコロナ禍対応としてクローズアップされている。このようにテクニカルなことが増えていくことでコロナ禍前と変わるというのではない。それは本質ではない。


コロナ禍とその前のいちばんの違いは、作為して成り立たせようとしている事柄に、ある確率で「無作為なこと=コロナウィルスに罹患する」が発生し、それまでの作為の事柄を台無しに、パーにする可能性があるということである。


これは制御できない。唯一制御するならば、①何かをするときはコロナウィルスに罹(かか)っていない人とすること、②現在罹っていないだけでなく、これからも「罹らない」と保証できる人とするということ。

これは大変である。今罹っていないことは検査すればわかるが、これからも罹らない保証など誰もできない。

そして、コロナ禍前とコロナ禍後で、根源的な社会哲学テーゼが変わる。どういうことか。「作為的なことを営々と行っていても、無作為的な事柄がおこることで、すべてが台無しになることがある」ということを前提・下敷きにおいて、未来を考えないといけないということである。コロナ禍前に社会・経済的に成功したスキームは通用しなくなる。これがコロナ禍後社会の本筋である。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞COMEMO 6月30日掲載分〕