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2020年06月04日 by 池永 寛明

【起動篇】冬眠から目を覚まして―コロナ禍後社会キーワード(6)「陰陽融合」


毎朝の朝陽と毎夕の夕陽、1年365日、同じ景色はない。夜のしじまの朝陽が湖上と山崚を刻々と変えるグラデーションの夜明けの空も、昼の喧騒から水平線に夕陽が落ちていくなか都市を照り輝かせる空も、一日たりとも同じ情景はない。月から太陽に入れ替わる、太陽から月に入れ替わる瞬間が毎日つづく。中国の友人から届いたメッセンジャーを読みながら、朝陽と夕陽が眼に浮かんだ。


池永さんが先日書かれた、“集中か分散か、全体か部分か、都市か郊外かといった「二項対立」から離れよう”というメッセ―ジを読んで、易経の「陰陽融合」が思い浮かびました。中国では、幼少のころから、「陰陽」を学びます。「陰陽融合」は、「二項対立」とは正反対です。太陽が陽であれば月は陰。集中が陽であれば分散は陰。リアルが陽であればネットワークは陰。陰陽は昼と夜の間に線が引かれていないように、対立しているようでありながら、融合しあって、決して離れない。陽は陰があってこそ、陰は陽があってこそ、ひとつとなります。

陰陽融合は、物事そのものです。陰と陽は常に変化して、互いに増えたり減ったり(此生彼長)、互いに競争しながら成長する(相生相長)。どちらかが選択されるのではなく、どちらも存在して、互いが成長していく。

「窮すれば即ち変じ、変ずれば即ち通ず、通ずれば即ち久し(「易経」)」も同じです。思えば変わる、変われば達し(成長)ます。現代社会に生じている様々な機能不全は、「陰陽不調」といえるでしょう。新型コロナウイルスは、社会の「陰陽関係」を崩しました。しかしコロナ禍後は元の姿に戻るのでも、不意に失った陰を増長させるのでも、成り行きでおこった陽を拡大させるでもなく、次の陰陽融合にむけ動いていかねばなりません。

(中国の若い女性からのメッセンジャー)


「陰陽融合」と聴いて「塩梅の妙」が浮かんだ。
春から初夏にかけて、日本料理は、がらりと大きく変わる。まず器が変わる。土物の陶器から、石物の磁器や硝子器に変わる。料理の順番が変わる。冬は温かい料理からはじめて胃を和らげていくが、夏は冷えたビールをのど越しによく飲めるよう香ばしいパリッとした食感のある揚げもの料理からはじめる。季節や旬の食材ごとに、味付けを変える。男性・女性ごとに、年齢ごとに、お客さまの体調にあわせて、味付けを変える。


そのなかでも醤油と塩の配分を変える。冬の料理では7:3だった醤油と塩の配分を、初夏には4:6の配分として、夏になると3:7と逆転させる。日本料理は塩加減が肝心で、塩梅がなによりも大事。ほどよい加減、ちょうどいい按配は、日本料理の「塩梅(あんばい)」からきている。日本料理の神髄は、この「塩梅の妙」である。


「コロナ禍後、デジタル技術が社会を支える基盤となる」と、みんな、言う。むしろ加速しなければならないが、本当にその社会は到来するのだろうか。緊急事態宣言が解除された前後から、“コロナ、コロナというが、コロナが終わってもなにも変わらないのではないか、コロナの前に戻るのではないか”といった声も増えだしている。現在進行形でコロナ危機に直面する人たちと違った空気感が、一方の世界にあるのは事実。これから、日本はどうなるのだろうか。


一年前から、Society5.0をめざしたプロジェクトにかかわっている。マーケットデータをデジタル技術・AIで、これからの社会につないでいくというワークに参画しているが、毎回の議論がどうも?み合わない。しっくりこないことが多く、社会の実態と技術が未来につながっていくという実感がない。それは技術シーズと市場ニーズの単純なミスマッチだけの問題だけではない。議論の前提である市場観、生活観、社会観がずれているような気がする。それは、決してこの大学だけではない。


この30年、日本はなにを読み違えたのか。日本経済史の「頂点」といわれる1990年頃の成功体験の慣性(イナーシャ)で、日本は技術を読み違え、マーケットを読み違え、お客さまを読み違えた。団塊の世代が主体となる高齢社会をメインの社会課題に据えたことも、日本の読み違えのひとつ。

この30年、日本は、「デジタル・AIで、なにができるのか」などと、技術を起点に考えた。一方世界は、「こんな暮らしや仕事をしていくために、IT・AIをどう使えるのか」と、ライフスタイルやビジネススタイルを起点に考えた。それがなんだと思う人もいるだろうが、この起点の違いで、日本と世界が見る風景を大きく変えた。この見つめる風景の違いが、日本の失われた30年の根っ子にあるのではないか。コロナ禍の今も、それがつづいているのではないか。


日本はいつからか「二項対立」で考えるようになった。集中と分散、全体と部分、形式と実質、抽象論と具体論、都市と郊外、ジェネラリストとスペシャリスト、ハードとソフト、リアルとバーチャル、専門と一般といったように、「二項対立」で物事を捉えるようになった。それは物事の思考幅を広げることにつながるが、単純な裏返しで捉えたり、AがダメならばBという代替論に陥っていることが多い。

「ウチとソト」の感覚が日本人にある。日本人には、「ウチとソト」とともに、ウチでもないソトでもない「まんなか」を意識する。日本住宅でいえば、縁側や縁台や土間や中庭や路地(ろうじ)が、ウチでもソトでもない空間であり場所であり、その場所でウチとソトのバランスをとった。カタチあるものもあるが、結界のように目に見えないカタチのないものもあった。物理的でもあり、精神的なものでもあった。そのどちらでもない「まんなか」が、日本住宅からなくなっていった。
ウチでもないソトでもない、そのどちらでもない場所だからこそ、ウチが理解できソトが理解できて、それぞれが深められた。そういったことを大事にしてきた日本人は、「ウチでもないソトでもないまんなか」を「陰陽融合」や「塩梅の妙」などとともに、どこかに置き忘れてきてしまった。そして、コロナ禍となった。


私の専門はこれ、それは私の専門外という人が多くなった。学問がどんどん専門分化していったことでもあるが、社会人も同じく、僕の専門はこれ、それは僕の専門ではないという人が増えた。Aはするが、Bはしない。Bはするが、Aはしない。AでもBでもないことは、だれもしない。そんな「穴」が社会に広がる。知り合いのAI研究者はいう、「学問もAを究めてBを究めるからこそ、AとBの間が埋まりAとBの研究が深まるのに、それをしない研究者が増えている」と。それは企業も同じだ。「多様性が大事だ」とみんな言いだしているが、知らないことやいままでと違ったことに耳を傾けない受け入れない人が逆に増えている。


コロナ禍で機能停止するが、積極的な冬眠をしている人も多い。
私の知人はフランス料理とイタリア料理を修行して若くして日本料理人となったが、コロナ禍のなか睡眠時間を惜しみ江戸時代の大坂料理と茶道を学び現代大阪料理を磨いている。若い歌舞伎俳優はラジオのパーソナリテイをしつつ、舞台が無くなったコロナの冬眠時間を先代や先々代が遺した書物を読みつくしたあとに、歌舞伎の本質であるエンターテインメント性をYouTubeで追求している。私は会社に入って、人事勤労・マーケティング・企画・営業・まちづくりなどいろいろな仕事を、出向も経験したが今、コロナ禍後社会の姿を研究している。何でも屋でもあるが何でも屋でもない。それぞれが繋がりあって、今がある。みんな、一つの専門性にとどまらず、新たなものに転じて、次に向かおうとしている。


陽は陰があってこその陽。陰は陽があってこその陰。陰と陽が溶け合いひとつになる「陰陽融合」こそ、コロナ禍後社会の最大のキーワードではないかと思う。


積極的な冬眠からそろそろ眼を覚まして、これまで考えつづけてきたことの一歩を踏みだしていこうと思う。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞社COMEMO 6月3日掲載分〕



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