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2019年12月13日 by 池永 寛明

【起動篇】めんどくさい日本(1)


“いちいちめんどくさい、ああめんどくさい、なんかめんどくさいな”―テレビでも学校生活でも会社でも毎日飛びかう。なんでもかんでも、めんどくさい。最近とみに、この“めんどくさい”が増えている。日本人はとかく“めんどくさい”ことがキライ。実はめんどくさいは“日本社会・文化とはなにか”を考える極めて大切なキーワード。


“めんどくさい”に込めている意味は人それぞれちがっている。ニュアンス言葉である。もともとの意味から変形して、人によって、様々な「めんどくさい」が使われる。しかしめんどくさいには、体裁が悪い、厄介だ、うるさい、わずらわしい…といろいろな意味があるが、日本古来より使われる「わずらわしい」がベースにあると考えられる。その「わずらわしい」とはなにか。


病気になることを「患(わずら)い」という。罹患・患病・患者と、病には「患」という漢字があてられる。日本語の「患者」は、病気を患うこと。患いが普通の状態(健康体)にまとわりついて病となる。だから自らにまとわりついた患(わずら)い=病を振り払うのが日本人。英語では患者のことをペイシェント(patient)といい、耐えるという意味となる。英語圏の患者は、病気に耐える、耐えてじっと待つ、耐えて忍ぶのに対して、日本語圏の「患者」は自分の意志で、患(わずら)い=病を振り払おうとする。わずらいは振り払えるものだと考える。このように病気に対する英語圏の人と日本人とでは考え方が大きく違っている。だから本来医療の考え方は日本と西洋とはちがっていた。ではこの「わずらい」はどこから生まれたのか。実は古事記に登場する。


古事記と日本書記に、「男神イザナギ・女神イザナミ」の夫婦神が登場する。夫婦神は国づくりをおこなうが、女神イザナミが大火傷を負って死ぬ。嘆き悲しんだ男神イザナギは、死者の国「黄泉(よみ)」の国に死んだイザナミに一目会いたくて訪ねる。黄泉の国でイザナギが見たイザナミは、変わり果てた姿だった。イザナミは喜んで会いに来てくれたイザナギに抱きつこうとするが、イザナギは異臭のする腐敗した、むごたらしいイザナミを振り払って、逃げ帰ってしまう。私がこんな姿になってしまったら愛してくれないのかとイザナミは恨みを持つ。黄泉の国から帰ってきた(「よみがえる」の語源)イザナギは、イザナミに抱きつかれて付いた汚れや臭いを振り払おうと、着ていた服を脱ぐ。これが「けがれ」を受けた人間がそれを振り払う「みぞぎ」の始まりである。そして黄泉の国でイザナミに抱きつかれ、汚れ脱ぎ捨てた衣服、杖や帯、袋、帽子から、12の神様が生まれた。そのなかで脱ぎ捨てた服から生まれたのが「和豆良比能宇新能神(わずらいのうしのかみ)」(日本書記では「煩神(わずらいのかみ)」)という神様だった。古事記・日本書記の時代に、日本人・日本社会を特徴づける「煩い」「けがれ」「みそぎ」という文字がうまれた。日本人の煩いは、このように古代からつづいている。


イザナギはわずらわしいもの、うるさいものを脱ぎ捨てた。だから日本人はみそぎをして身を清めたり、結界を張る。外からわずらわしいものが内に入ってこないようにする。ここで日本人の「内と外、ウチとソト」の概念がうまれる。 自分にくっついてくるのはわずらわしく、うるさい。うるさいものは外からやってきて、まとわりつこうとする。病にかかったり、変になるのは自分がおかしいのではなく、外からわずらいがとりつくからなのだ。だからわずらわしいものが外から入って来ないようにする。入ってきてとりついてしまったら、振り払う。そのために、おはらい、みそぎをする。そもそも入ってこないよう、盛り塩、しめ縄、神社の鳥居、川などの「結界」を張る。たとえば伊勢神宮の参拝はなんども川を渡るが、それが結界であり、外から「うるさいもの」「わずらわしいもの」が入ってこないような空間構造をデザインしたり、日本住居には縁側や中庭のようなウチでもないソトでもない中間ゾーンを日本人はつくってきたのである。

画像2


わずらいが外から内に入ってくる。人にとりつこうとするわずらいはうるさいのだ。だから「戸は開けたままにしないで閉めなさい」と親は子どもにいってきたし、「この線のなかには入ってはいけない」というような行動様式が承継されてきた。結界が張られたら、その内には入らない日本人を外国人はとても不思議に思うが、日本人は今でも自然にそうする。目に見えようが目に見えまいが、「結界」を意識する。これが日本文化である。
日本人が内と外に執拗にこだわるのは、この「わずらい」の存在からである。外から来るのはわずらいであり、うるさいもの。内のことだったら内々(うちうち)で話し合えばなんとかなるが、外から入ってくるものは「わざわい=災い=禍=厄」であり、話が通じないかもしれずなんともならない。だから「内憂外患」という言葉も生まれた。内のことは憂いで、どうしようどうしようと悩めばすむが、“わずらわしいこと・うるさいこと”は外からやってきて、内が大変なことになる。だから内と外を分けてきた。外にいるわざわいが内と外の境界を突破し、自分にとり憑こうとするから、入らせないようにする。このわずらいこそ、日本人・日本社会の特性を規定するキーワードのひとつである。


親も妻も夫も子供すら煩わしい。“面倒くさい、うっとおしい、うざい、気持ち悪い…”というように、煩わしいの同義語が日本語にはいっぱいある。だから内と外の“結界”が大切だった。しかしながらこの内と外の境界、区切り、仕切り、中間、縁側、中庭が、限りなく薄くなり、減りつつある。分厚かった“界”がどんどん薄くなっている(第三の場所(サードプレイス)として日本人に受け入れられたスターバックスはこの文脈にある)。“界”は人の皮膚のすぐそばまで来ている。だから夫婦であっても、“これは私の流儀だ”“オレのやり方だ”と主張し、自分以外はみんな、“うるさい”“うざい”“面倒くさい” “わずらわしい”となった。これこそ、現代の日本社会を理解する重要なコンセプトである。


日本人は世界一「煩わしいこと=うるさいこと=面倒くさいこと」がキライなのだ。次回はこの“煩わしい、うるさい、面倒くさい”が日本社会・文化にどういう影響を与えているかを考える。


(エネルギー・文化研究所 顧問 池永寛明)


〔日経新聞社COMEMO 11月25日掲載分〕

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