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情報誌CEL

ベニシア・スタンリー・スミス

2019年03月01日

私と京都

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2019年03月01日

ベニシア・スタンリー・スミス

住まい・生活

ライフスタイル

情報誌CEL (Vol.121)

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1971年4月11日、台湾発のフェリーは大きな火山の桜島に近づき、やがて鹿児島港に着きました。そのとき私は20歳。前年の9月上旬に英国から旅立った私は、ガンジス川上流の聖地ハリドワールにあるアシュラム(瞑想道場)で、数ヶ月間、瞑想中心の生活を送りました。そして次は日本へ向かうことにしたのです。 私は日本に親近感を持っていました。母の実家ケドルストン・ホールで、子供の頃から日本の古い工芸品や写真などを見ていたからでしょうか。私の曾祖父の兄ジョージ・カーゾンはインド総督兼副王や英国の外務大臣などを務めた政治家です。明治時代に2回、日本を訪れ京都へも足を運んでいます。カーゾンが撮影した日本の写真が、幼い私の記憶の片隅に焼き付いたのかもしれません。
鹿児島港から町に出た私は、日本人が和服を着ていないことにまず驚きました。旅の途中で仕入れた「Fugetsudo」という情報だけを頼りに、東京へ行こうと決めていました。その頃、風月堂はカウンター・カルチャーの拠点となる銀座の喫茶店でした。そこへ行きたいのにお金がありません。ならばヒッチハイクするしかない。 道路沿いで親指を上げていると一台のトラックが停まりました。助手席に乗り込むと、インドの流行歌と中国の民謡を混ぜたような、これまでに聴いたことのない音楽がラジオから流れています。初めて聴いた演歌に、私は異国情緒を感じました。トラックから窓越しに見る家々には、大きな布で作られた色とりどりの鯉が風になびいていました。それが何なのか知りたいと思いましたが、英語を話さない運転手さんと会話ができません。平野はすべて田畑として開かれており、その美しさに私の心は和みました。翌朝、真っ青な空の下で朝露に輝く桜の花たちが、美しく印象的でした。やがて、たくさんの煙突がある工場地帯に入り、これが本当の日本の姿なのかと思いました。「大阪です」とトラックは橋の横に停まりました。お礼を言って私は運転手と別れました。
自分がどこにいるのかわからないまま、私は川沿いを歩きました。ふと見ると交番があります。「コンニチハ!英語できますか?」と声をかけると、「ノー!」と巡査は手を左右に振りました。「東京?」と訊くと、首を振りながら、「東京、あっち、あっち」と指さして、「新幹線、新幹線」と言いました。私が「ノー・マネー」と言って出ようとすると、彼はパトカーを指さして乗るように手招きします。