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2017年10月05日 by 池永 寛明

【交流篇】 紫式部は、なぜ源氏物語を書いたのか?

       

 

ある外交官から「外国の方からよく言われることがある。日本人は源氏物語を紫式部が書いたことは知っているが、なぜ彼女がそれを書いたのか?その頃の時代背景はどうだったのか?という質問に答えられず、たじたじされる人が多い」という話を聴いた。

 

幕末の安政の大獄や寺田屋事件のことを語れといわれても、「年号と事件名」は答えられるが、司馬遼太郎の本を読んだり、大河ドラマで見たはずのストーリーを長く語れない。今の日本は、コンテンツが中心で、「それはなぜか?」というコンテクスト(背景・文脈)を追いかけることが苦手な国になっている。

 

イタリアの靴屋はダンテを長く話すという。フランスのデザイナーはバルザックを何時間も語るともいう。しかし今の日本で近松や西鶴を長々と語れる人が少ない。かつて長く話せる人が多くいたはずが、今は短くしか語れない。ワンフレーズ、キャッチフレーズ、ワンセンテンスで済ます話が短く、しかも切れ切れとなる。表面的なところだけがとり出され、その奥にあるものが無くなり、風景や息づかいが聴こえなくなっている。よって話が深くならず発展しない。動きも連続性が見えなくなる。

 

近松の曽根崎心中の道行きや「巨人の星」の星飛雄馬が1球投げるのに30分番組が終わるというような「長さ」がない。点と点がつながらず、線にならない。だから当然、面にならない。たとえば江戸時代のころのような独特な線や構図、絵や長々とした骨太の物語がうまれなくなった。

 

会議も気になる。都市計画の会議は建築出身者ばかり、文化財の会議は文学部出身者ばかり。企業も同じ。商品開発の議論は技術開発の人ばかり、営業は営業の人ばかり。異なったことや人、違ったことや人が入らない。専門家だけの議論はどうしても部分最適となり、内輪の議論なのでコンテンツ中心でコンテクストが消える。業界内の言葉が先行して、中間省略され、言葉が短くなる。だから外の人には判らない。社会に通用しないことが増えてしまう。

 

一方、海外の公共のまちづくりや企業では様々なジャンル・年代・キャリアの人たちが参画し、違った角度からの意見が持ち込まれ、「ブラウン運動」のように喧々諤々に議論が飛びかい、新たなものを生み出している。

 

いうものの、今、日本でも朝活や夕活が流行りだしている。しかしながらハウトゥーものが多い。実務直結型の知識取得のテーマが多い。専門外の勉強はあとまわしにされる。メタ的なテーマは人気がない。そういったテーマも学ばないといけないと思いつつ、時間がないと見送られていく。本もそう。ハウトゥー物が中心で、専門特化の短い本が選ばれがちで、ぶ厚く、難解そうに見える、自分の専門外の本はどうしても敬遠される。

 

だから、話に厚みがない。話がおもしろくない。議論が広がらない。専門外の人には理解できない。だから専門外の人を呼ばなくなる。今、「学び」が圧倒的に不足している。それも自分とはちがう、異なるものからの学びが弱くなっている。

 

かつて私たちの先輩はシルクロードから渡ってきた新たな異なるものを貪欲に学び、吸収し、“日本的なるもの”にしてきた。たとえばサンスクリット語の表音文字の漢文の経典を読み解き、翻訳・編集・変換して日本的なる教えを生みだしてきた。諸相が適合不全となる今こそ、現実と制度・ルールがあわなくなりつつある今こそ、自らの専門外の新たな異なるものに関心を寄せ、吸収するべきではないか。

 

(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)

 

日経新聞社COMEMO  105掲載分