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2017年08月30日 by 池永 寛明

【交流篇】 「道=まち」であった大坂 ─ 通りと筋

       

 

大坂と江戸のまちの地図は正反対。

大坂は道路をつくってから家屋が建てられ、江戸は家屋ができてから道路をつくった、といわれる。大阪の道路は縦横平行、江戸は放射線状に町割りがおこなわれた。

 

大阪ガスビルは御堂筋と平野町通と道修町通にかこまれている

大坂の地図には筋」と「通り」という道路名でてくる、現代の大阪の地図もそう。江戸での「通り」という道は大きな道路(メインの日本橋通など)という意味であり、方角に関係はない。一方、大坂では南北の道を「筋」といい、東西の道を「通り」という。

 

まず豊臣秀吉が大坂城を上町台地につくった。

大坂城向かって、東西を「通り」としてつなぎ、まちがつくられた。縦には淀川の支流大川から南に「筋」を交叉させていく。よって東西の「通り」がメインで、「筋」がサブであった。ちなみに大阪ガスの住所は「平野町4丁目12」である。今も住所・町名にその都市づくりのコンセプトが残る。

 

大坂三郷には620町(北組250町、南組261町、天満組109町)があった。

江戸時代の大坂は最盛期人口35万人であったと記録に残っており、町あたり500600人だったと考えられる。小さな中学校くらいの規模である。町のみんなが知りあいだったと考えられる。

その町々の通りには木戸があり(通と筋がクロスするところには木戸はない道をはさんでひとつのユニットとして町(両側町)が形成され、町ごとにルールを決められ、町としての「行事」、「自治」がおこなわれた。

大阪は人と人との関係、家と家との関係が短いといわれるが、木戸と木戸とで区切られた町は、濃密さと心地よさと安全性と信頼感を生み、一方窮屈さもあったろう。しかし、よく考えられた機能的かつ効率的なまちだったと思う。

 

今、私たちが見ている御堂筋の幅は広い。

御堂筋は、幅46.3m24間)であるが、もともとは3間(5.91m)という細い道であった。江戸時代から明治にかけての大坂の道は狭かった。大坂は、江戸のように馬や牛車は使わなかった。荷物は川・堀を川船で運ばれていた。

ともあれ、江戸時代から明治の道路幅は今から考えたら狭い。3間(5.91m)ないし5間(9.85m)で、向きあう商家の動きがよくわかった。

また橋通では夏になると両側の商店の屋根から屋根に覆(おおい)をかけて、道=まち全体を日陰にし、日射をさえぎっていた。今でいえば、アーケードだろう。道幅が狭かったからできたことだが、驚く光景であった。

 

大阪ガスビルの屋上から1937(昭和12)年に完成した御堂筋を見た。

大阪・梅田から難波まで南北一直線につらぬいていることがよくわかる。車がひっきりなしに走っているが、100年前には東西の「通り」を基準に人々が生活し歩いていたこと、淀川に加えて堀が海から船場に水路ネットワークされ、川・舟が行き来していたことを知っている人は少ない。たった100年前のことなのに、みんな憶えていない。

 

(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)

 

〔CELフェイスブック 830日掲載分