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2017年07月19日 by 池永 寛明

【場会篇】 「津」がうみだしたもの

    

 

という言葉がある。

津とは海岸、河口、川の渡し場などの船が停泊するところ。港水門(みなと)=水の出入り口)をひかえ、人が集まるところ。全国に「津」という地名は多いが、古代での三津は「薩摩坊津、筑前博多津、伊勢国安濃津(現在の「津」)」、江戸時代は「京都、大坂、江戸」が三津とよばれた

 

ある大学の「現代産業論」で、大阪の産業のことを講義させていただいた。

近畿を本拠とする企業として、現代の大阪の産業を考えるうえで、今の大阪の産業がどのようにして生まれたのか、なぜそうなったのか、なにがこの地の産業を強くしたのかを考えるため、時代をさかのぼってみた

 

海と川と湖にはさまれた場に、“津”ができた。

その場は浪が速いから、「なみはや、浪速、難波」、魚(ナ)が捕れる庭(ニワ)だから、「ナニワ(なにわ)」と呼ばれた。“難波津”に市がたち、人々が集まり、交易がおこなわれ、町が形成されていった。

 

大和に政権が樹立された。

大和は日本の中心となり、陸と海のシルクロードの終着地となる。現在大和は内陸部に位置するが、当時は瀬戸内海から難波、そこから湖、川を通じて都に通じていた。縦横無尽に水路ネットワークがはりめぐらされ、舟が行き来していた。難波は大和政権の「外交物流拠点」の役割をにない、国内外の物資が集積し、ガラスなど装飾品の手工業がうまれた。JR環状線の名に残る玉造」というまちには勾玉などのガラス製造工場があった

難波津と呼ばれた古代の上町台地には、すでに原料加工製造工場が林立していた。大阪の産業が萌芽した。

 

難波津は変貌していく。

平安・鎌倉時代の渡辺津、室町時代の大坂本願寺、豊臣秀吉の大坂城、江戸時代の天下の台所、明治・大正・昭和時代の東洋のマンチェスター、大大阪、戦後復興、高度経済成長、大阪万博と、幾度もイノベーションを繰り返して成長しつづける。それぞれの時代で求められるモノ、コト、情報は変わったが、難波津時代の“地力”を活かした大阪の「本質」は変わっていない。

 

本質とは、「ネットワークトランスファー文化」

国内および海外、シルクロードの終着点として、モノコト、ヒト、情報の流れの結節点としての“津”という場が発見され、水路と陸路ネットワークがひらかれ、“津”に様々な人々が集まり、交わり、情報が重なりあい、吸収しあい、変換しあい、編集され、都市に新た価値を創造した。

 

それは難波津だけではない

むしろ上方、畿内そのものの本質である。畿内の「津」「湊」「港」という地名に、その本質が残されている

からのモノ、コトを敦賀にて受け入れ、陸路を通り琵琶湖の塩津、今津に、さらに湖で大津に、陸路・水路で京都へ。また東西からのモノ、コト、ヒトを兵庫津で西宮津で、難波津で受け入れ、川を通じて畿内を流通した。

新たなモノ、コト、ヒトが外から入ってきて、受け入れ、新たな価値を生み出した。トランスファー文化がこの地の本質であった。

 

(エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明)

 

〔CELフェイスブック 719掲載分