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2017年05月16日 by 池永 寛明

【起動篇】  〔「311から」を歩く1〕 風景が変わったまち

         

 

「ここが私の定点観測の場所です」

陸前高田市の友人にまず連れていかれたのは、陸前高田市のかつてあった「市街地」が眼下に一望できる山だった。陸前高田では人口2.4万人のうち、7.2%にあたる1,757人の人々が亡くなられた。とりわけ高田町は15.4%の人、つまり6人に1人の命が失われた。

 

その巨大津波は堤防を超え、町の形成・発展の基盤であった気仙川を遡上し、山間までを襲った。文字どおり鉄筋コンクリートビル以外のものすべてが流れ、まちは一気になくなった。それは6年前の311の姿。

今、陸前高田にある山を切り崩し、その土砂をベルトコンベアで運び造成して、まち全体をかさあげしようとしている。高いところで14メートルというが、下に立つともっと高く感じる。さらに広田湾の堤防を高くする工事をしており、津波に対して二重の対策がおこなわれている。

 

岩手県陸前高田市を巨大津波が襲った。

2011311日午後246分の地震発生から40分後のことだった。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震と津波で、まちがなくなった。

震災復興という言葉が空虚に感じる。陸前高田の今を歩くと、復興のスタート地点にも立てていないのではないかと感じてしまう。

 

陸前高田では多くの人の生命が失われた。

避難所であった市民会館、市民体育館、小学校、中学校、市役所で多くの方が犠牲になった。建物、家、車が、そして人々が巨大津波に呑み込まれ流された。友人は消防団員として、小学校や中学校の体育館にご遺体を運んだ。「過去、陸前高田には何度も津波が来た。昔の人たちはそれを忘れなかった。しかしながら、昔と今とで大きく変わったのは、今まで来なかった町に津波が来たことと、車社会となったこと。車で助かった人もいるし、生命をおとした人もいる。過去をそのまま学ぶだけではなく、現代の技術やシステムをアップデートして考えなければならない」と。

 

友人は陸前高田の311の報告書にかかわっている。

友人は「未来につなぐうえで大切なことは、その日になにがあったのかをきちんとつかむこと。その日市民会館に300人から500人ほどの人がまず避難した。その市民体育館で遺体として発見されたのは50人。私たちは多くの犠牲者が発見された場所がどこかはわかるが、人々がその日どう動いたのかはつかめていない。まずどこに逃げ、さらにどこに動いたのかがわかっていない。私たちが311に学び、これからに向け対策していくためには、人々がどう考え、どう行動したのかをきちんとおさえておくこと。そうでなければ本当のことを次に繋ぐことにならない」と語る。

 

大震災と巨大津波のとき、私は東京で勤務して新橋にいた。

都市ガス復旧、エネルギー危機の仕事に絡み、エネルギー会社の視点で「東日本大震災」を体験した。それから6年と2ヶ月が経った。311から何が変わったのか、何がおこり、何がおこらなかったのか、今、私たちはなにができるのか。岩手県の陸前高田から宮城県気仙沼、石巻、仙台、名取市の「311から」を訪ね歩こうと考えた。

 

過去と現在、そして未来を繋ぎ、その地域が持つ本質に新たな息吹を与えて地域の再起動(ルネッセ)ができないかという視点で歩く。「311から」を陸前高田から歩きはじめた。

 

エネルギー・文化研究所 所長 池永寛明

 

〔CELフェイスブック 516掲載分